関根康正 「ある危機からの構築にむけて―「21世紀の日本文化人類学会の国際化とグローバル化」に関する問題提起―」『文化人類学』79-4
この論文には、文末に関根個人の見解で学会会長として学会の意思を代表するものではないと断りながら、文科省が迫る国際化というものに対応せざるをえないが、本筋ではどう考えるべきかという苦々しい思いが吐露されています。民俗学会では学会の中枢部にはこうした本筋論がなく、文科省の物言いにそのまま乗っかって、遅れている日本民俗学を国際的に通用する学問にしなければいけないといきまいているように思えます。
それはさておき、民俗学などからみるとはるかに国際化が進んでいるかにみえる文化人類学会では、どんな対応を考えているのか問題提起から見てみましょう。
今、外圧として国際化が2つの面で求められているといいます。一つは、文科省の誘導による学会誌の徹底した英語化による国際化、もう一つはグローバルスケールの人類学の国際組織の活動の活発化への対応という国際化の二つだといいます。これを危機と受け止めて会員に問題提起をしたいという趣旨です。よくわかります。
少子化による研究教育機関の縮小傾向と学問への性急な社会貢献の要請傾向の重なりの中で、課題は研究機関のポストを守る事で、そのためには人類学の学問としても社会的重要性と存在意義を自己言及的に表現することが必要だといいます。ここまではっきりと大学におけるポストを守ることだといわれれば、潔すぎていいようもありません。ただ、ここから先の議論の立て方が民俗学とは違います。「ここでの私の問題提起の立場は、英語化を中心に国際化できない学問、すなわち国際競争力を持たない学問には社会的に存在意義はないのではないか、消滅の方向に行っても仕方がないのではないかというやや表層的で荒っぽい社会的プレゼンスについての性急な考え方に対して適切に意義申し立てを行おうとするものです」とあります。国際化の名の下に「マイナーな存在を自己責任を果たせない欠格存在だとして目もくれないような態度を、人類学の学問世界に持ち込むことは、間違いなくこの学問の自壊を意味します」とまでいいます。学問の対象に向かう態度としてマイノリティーをこそ正面に据えていかなければならないのに、学会内部でマイノリティーを切り捨てていたのでは、研究のありかたとして不誠実だということになります。大学に在籍しない研究者(そもそもこんな定義はないようですが)が多くを占める日本民俗学会では、なおさらこのことは言えると私は思います。とはいいながら、文化人類学会としとしては国際化、ざっくりいえば英語化に対応しつつも、本筋は違うよというのです。
柳田・折口・南方らの学問的蓄積から始まった日本の人類学は、そこへ接ぎ木のように欧米の人類学理論をのっけて学問を維持してきたが、だからと言って研究成果を英語で発信し学問の輸入超過を是正せよというのは、安易に英語圏に迎合してオリエンタリズム的構造を再強化するだけのことだというのです。「自立した日本語のアカデミックな空間が存在できたことは、望んでもすぐできるものではなく、むしろ素晴らしい私たちの蓄積と財産なのではないでしょうか。それぞれの言語風土での固有性と妥当性を持って成長してきたまっとうな学問状態とみなすことは十分可能でしょう。ところが、現今はこのような状況を、言語的閉鎖性による学問的停滞、あるいは国際競争力のなさとネガティブにみなす向きが強まってきています」という。そして「単純な国際化、つまり西洋知のモードへの平準化の中で失うものはあまりに大きく、取り返しがつかない結果を招きます」と、警告しています。なぜ単純な英語化が唱えられるかといえば、「社会科学に巣食っている権力=知としてのオリエンタリズムの故なのだ」といいます。
結論としては、「日本のローカル人類学を自己否定的に世界化するのではなく、むしろ積極的に再発見しグローバルな文脈で再提示していく努力、いうなれば私たちの人類学史を書く努力、私たちのグローバル人類学史を書く努力を自覚的に始めるときが来ているのではないでしょうか」とまとめています。
はてさて、民俗学はここから何を学べばよいのでしょう。まずは国際化を推進しようとしている先生方の、「国際化」とは何なのか聞いてみたいです。
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