長野市に合併した信州新町にある、民具の収蔵庫を見学してきました。収蔵庫とはいえ、廃校になった小学校の教室と体育館に、地域から収集した民具を入れてあるだけのものです。格別保存処置をほどこしたわけでもなく、受け入れ台帳も作ってありません。合併の際に長野市に丸投げとなり、受け入れた側も博物館の収蔵庫は満杯状態でもちこめず、処分するわけにもいかずそのままにしてあるのが実情のようです。これらの民具を今後どうしたらよいのか、しばし参加者で討議したしだいです。
私も一時県立民俗系博物館の建設を働きかけましたが、県には全くその気はなく、民俗文化財は在地で保存するのが望ましく、幸い長野県は全国1ともいえるほど、市町村立博物館(相当施設9の多い県だから、市町村に管理は任せる、というような回答をそのときもらいました、歴史館ができるときも、せめて民具の収蔵庫だけでもほしいと訴えましたが、こいつも却下でした。民具などという物は考古資料に比べれば価値のないいわばガラクタに近いというのが、大方の役人の見方なのでしょう。ところが、たくさんある歴民館の中心展示は民具であるにもかかわらず、役所などに民俗を専門とする担当者はほとんどいません。民俗学会が考古学会などと違い、文化財保護の圧力団体となれなかった、ならなかったことがこうした立場の遠因となっているのですが、民俗文化財が考古資料のようにある時点をピン止めして、資料化することには問題がある、もっと簡単に言えば民俗学者がある民俗についてお墨付きを与えてしまう、もっと極端に言えば民俗理論にあったような民俗だけを選別して作り上げてしまうことがよいのかという、とまどいもありました。たとえば、新野の盆踊り唄などは、柳田だったか折口だったかが選別したものが、今は正当な唄として歌い継がれています。
専門の担当者がいない中でやみくもに集められた(やみくもに集めるにしても集めないよりもはるかにましなのですが)民具は、名付けて何らかの展示物にされたらそのまま顧みられることはありません。市町村合併により、そうして展示放置された民具があちらこちらにあるのです。どうしたらよいのか。本当に保存を考えるなら、選別が必要です。選別の視点は2つあります。1その地域の民俗的特質を表すもの。たとえば、雪の多い地域ならば雪と暮らしをあらわすもの。山仕事で生きた村なら、山仕事の道具。2全県ないしは全日本的視点からみて、文化圏をあらわしている指標になる物。このような物を残し、あとは同じ物がいくつかあったら処分させてもらうしかしょうがないと思います。
もう1つ感じているのは、新しく合併した地区の生活文化が総じて軽んじられてはいまいかということです。平成の合併で市に加わったのは、周辺部が多いはずです。そうした地区は、見た目のよい文化財がある可能性は低いのですが、そこでも営々とした人々の暮らしがあったことは事実です。そうした何でもない人々の暮らしが忘れられ、捨て去られていくのは、全ての財と文化が東京へと一極集中していくのとパラレルな関係にあります。東京の地方都市版が目の前にあるのに、地方都市がすたれていくことを嘆いて、自らが周辺部を切り捨てていることに気が付かないのです。行政の効率化のために合併はありましたが、単にそれが周辺部を見捨てることになってはいないかと危惧します。
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