教育のヒント by 本間勇人

身近な葛藤から世界の紛争まで、問題解決する創造的才能者が生まれる学びを探して

公立一貫校の適性検査

2006-04-10 01:50:27 | 学習プログラム
◆朝日新聞(4月9日)は「選ばれる学校②」で、公立中高一貫校の適性問題の内容に切り込んでいる。大いにこういう議論はすべきである。結局学力を形成するための方向性は、入学試験の内容にかかっているからである。

◆ただし、まだまだ議論が不足しているため「受験技術より問われる家庭学習」などという幻想は払拭しきれていない。「受験技術」というものは果たしてどの程度のものだろうか。

◆「どっしりと尻を据えたる南瓜かな」が表現している南瓜の特徴を説明させる白鴎の出題例が出されていたが、これは従来から私立中高一貫校でも出題しているような問題。

◆まさかこの問題に解答する考え方が、私立と公立で違いがあるということではあるまい。また果たして家庭学習でこの解答は組み立てられるのだろうか。

◆家庭学習というか家庭生活で南瓜をどのように扱っているかは大事である。しかしそれはあくまで南瓜の背景文脈を子どもの無意識の中に蓄積することの重要性である。

◆南瓜はまず当たり前のものとして背景に文脈が無意識的に存在していることが肝要。だが、これを背景から図として取り出すには、思考のプロセスや編集のプロセスが必要となる。

◆これは受験技術ではなく、受験があろうがなかろうが、修得すべき技術であろう。五感を想起するイメージとそれに反応する感情、俳句の中の南瓜以外のレトリックを論理に置換するなどの手続きは、受験技術ではあるまい。

◆しかしながら、家庭で南瓜を手に取る場合、そんな分析的なかかわりをもつわけでもあるまい。家庭生活の中でソクラテスと対話するようなコミュニケーション状態を作るというのは、難しい。家庭生活の会話は、当たり前のものとして、ものが図として前面に出てくるコミュニケーションである。対話術は図と背景の逆転を意図する。

◆日本の教育では、聖書もプラトンも、つまりレトリックも哲学的対話も実践されない。しかし、それは受験技術とされてきたものでもある。受験の中に、レトリックと哲学的対話が埋め込まれてきた。

◆朝日新聞のような議論が増えれば増えるほど、そのことが明るみに出てくるはずだ。受験技術と忌み嫌っていたもの。それは実は聖書的ヘルメノイティークであり、プラトンのダイアローグであるということが明らかになるのである。

◆そうそうそれとこの2つのスキルは、日本のアニメや漫画、ゲームの中にも存在している。ただし、かなり素朴認識論がベースで、関数的認識論が育っているわけではない。善悪二元論で、善悪の彼岸にあるわけではない。この分野に光があたればもっとおもしろいことになるはずではあるが・・・。

※参考→「オカベの目のツボ§36

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