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流出雑記 

2015/3/9 ヴィエロポーレヴィエロポーレ

2015年03月09日 | Weblog

雨、降ったり止んだり。今日も夢をみた。どこかアジアの暑い国に公演に行くことになって、夫と制作さんと通訳さん、私の4人で空港にいた。陽射しが強いのを私が気にしていたのを覚えていた夫は、免税店でサングラスを買ってくれた。箱にはレイバンとかいてあり、開けると濃いピンクのフレームの大きなサングラスが入っていた。サングラスはほしかったけれど、普段は使わないしもっと安い物を行った先で買おうと思っていた。「ありがたいけど似合うかなこれ…試着してないし…いくらした?」と聞いたら「29000円くらいやった」「え高い。返品しよう。だって向こうに行って使う予算で払ったやろ。」制作さん「でももうゲート行かないと、飛行機でます!」「じゃあ帰国してから返品する!」と言いながら大急ぎでゲートまで走った。という。

 

小雨になったすきに手帳を買いに行こうと思っていたけれど、今日の雨は家を出るタイミングを与えてくれなかった。お昼の焼きそば味付けはパッタイ風。

昨夜、カントルの『ヴィエロポーレ・ヴィエロポーレ』という作品の記録映像を見た。フランスのテレビ番組で放映されたものが動画であがっていて、だからフランス語字幕。話している内容の全てはわからないけれど、これを日本語字幕で見たことのある夫の解説でなんとなく把握できた。でも別に言葉で言っていることがわからなくても、目の前で展開されるイメージだけで十分だった。

ヴィエロポーレというのはカントルが生まれた町の名前で、この劇はカントルの記憶から立ち上がっている。カントルのパーソナルな記憶、若い頃のカントルの両親の姿、軍服を着た父や花嫁姿の母も出てくる。カントルはやはり舞台の端で劇を傍観している。

舞台上では「記憶」である人たち、もうその姿をしていない過去の、死んだ人たちが溢れ出て来ては喋り、舞台上で再び死んだり、それでいなくなったと思ったらまたすぐにあらわれたり、あらわれたと見えたものは蝋人形だったり、フィクションの前提の上でさらに虚実入り乱れて怒濤のような勢いで劇は展開していく。記憶たちは我が我がと舞台に出てきては、ぎこちない動きで、自然なふるまいを失っていながら喋る。大雑把に言うと皆どこか人形化している。イメージとしてそのような状態が演出されていて、まるでカントルの絵の中の人物のように顔色を失い、物に同化することも可能なオブジェ的な存在感を伴い登場してくる。その演技の状態は、俳優がある人格を演じることによってそこにいる、というふうな見え方をせず、ある人物の記憶、つまりカントルの記憶を担保として、それに動かされて舞台にのぼってきたように捉えられる在り方をしている。その立ち方から、俳優のフォルムがせり上がってくる感じがする。そういう形状をした登場人物としてせり上がってくる。人格というよりずっと形状。 間違いなく人の形がそこにあるけれど、同時にいないとも言える気配がずっと同行している。

記憶である人たちの身に起こったさまざまなこと、それは国の政治的な背景を含んだ身体性、自然ではない、変形し硬化したふるまいが表象するに至った記憶で、それらの挙動に根拠があることが細かな解説をはさまなくても受け取ることができた。その端々まで理解することができなくても。カントルの個人としての記憶を起点に、カントル以外の同時代を生きる人々の身の上にあった圧力が可視化されている。それは上演から30年経ち、ポーランドから離れた国でこれを見た私にも受け取ることができた。それほど鮮烈なイメージに満ちた劇の時間だった。

劇を見たという感覚。一挙に今まで見た中の舞台ベスト3に入ってしまった。記録なのに。

 

 


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