figromage

流出雑記 

2009年08月06日 | Weblog
昨夜、阪本順治監督の『顔』(平成12年)を観た。
藤山直美演じる40過ぎのクリーニング屋の娘は引きこもりがちでひたすらミシンを踏んだりかけつぎをしたりして過ごす。
ある日働き者だった母親が突然死んでしまう。それをきっかけにもともと仲の悪かったホステスの妹(牧瀬里穂)と決裂、衝動的に妹の首を毛糸で締めて殺してしまう。
そこからは行き当たりばったでり助けられたり犯されたり、名前を変えながらの逃亡生活。
様々な人々と出会うなかで、無気力無頓着がへばりついたようだった顔に表情があらわれる。
他者との交通のないところに表情というものは必要ない。他者の存在によって相対するものとなる顔は、嘘も誠もひっくるめて照射される場として機能しはじめ、整備されていく。しかしどうなろうと彼女の顔は指名手配犯の顔である。彼女が外の世界へ飛び出すきっかけになったのは殺人であり、人々との出会いは逃亡のなかでのことだった。しかし人々を欺きながらも誰かに必要とされるまでに彼女は他者の中に身を投げ込んで変わっていく。その変容にはすがすがしいものがあった。

顔。
私はどんな顔をしているのかと今日の仕事中考えていた。
描かれているとき意識としてはどういう表情をしているかというと、視線は描き手とかち合い過ぎないところへ、遠くを見るように投げている。口元は少し口角をあげている時もあるが、大体唇をゆるめて閉じるか閉じきらないかくらいの馬鹿に見えないよう配慮したぼーっとした顔をしている。
例えばひとりで電車に乗ってじっとしているときはまた違った顔をしていると思う。自分でなんとなく設定した雰囲気によるものだが描かれる時は「描かれる顔」をしているのだった。
化粧はそれなりにきちんとしている。
着衣の時は着るものによって目の印象や眉の太さを変える、裸婦の時は赤いグロスを使ったり、また色をささなかったり。
モデルの仕事を本当に仕事としてやっていると意識された頃に描かれる顔としての一般的配慮をするようになったが、学生の頃は化粧に妙な拘りがあった。
何か欠落したような顔に惹かれて眉を無くしてみたり、まつげを全部抜いてみたこともあった。しかしその真意はどういう顔をしていたらいいのかよくわからず、どこかしら濁した不可解なものでいるのが居心地よかったからかも知れない。
若さを楽しむ事が下手だったしそこにあまり価値を見いだせなかった。まつげに美容液を塗るような若い女たちの女への甲斐甲斐しさと反対方向に走ってどこかに行ってやろうと躍起になったていた頃。
ようやく自分が女であることがそれなりに肌に馴染んできたと思う。
それはいろいろ拘りが多かった頃よりも様々な顔を同居させる余地があり、悪くないものだと思う。








最新の画像もっと見る

コメントを投稿