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流出雑記 

『今あなたが「わたし」と指差した行く先を探すこと2』

2011年02月23日 | Weblog

下腹部に鈍痛。若干間延びした状態で落ち着いた40日周期の血の巡り。当然仕事の日はかぶってくる。人前に体をさらしたくないと毎度のことながら思う。もたつく体を連れて1時から4時までクロッキーの仕事。

終わってからartzoneに『今あなたが「わたし」と指差した行く先を探すこと2』という展示を見に行く。
絵や立体の作品ではなく展示されているのは人である。ガラス張りのartzoneの前まで来る。外から見ると数人の人が何かしら中で準備しているように見える。展示期間中で入って良いと知っていても少し躊躇した。いざ入ってもなんとなく挨拶して、入っても良かったかまず聞いた。ギャラリーのなかには5、6人の人がいて、ダンサー、役者、ミュージシャンなど主に「見られる」場に立っている人たちが展示されている。展示といっても陳列されているのでなくそれぞれ中を普通に動き回っているし、こんにちはと言えばこんにちはと返ってくる。

展覧会形式というとマレビトの会の『HIROSHIMA-HAPCHON:二つの都市をめぐる展覧会』を思い出すが、この場合の展示では俳優はキャプションの前に立ち、空間に点々と配置され、それぞれの体験に伴った都市についての報告が為され、観客はそれを好きに見てまわるようになっていた。通常の観劇のように客電の消えた客席に腰掛けてものを見ているわけではなく、他の観客が動いている様も同時に見えるので、自らも空間において観客であるということに意識的にならざるをえない。その意識の軸の立った状態でこの観劇をどのような時間として体験し、どのように見るかということは観客に託され、それを問われる場であると感じた。俳優の体を介して「報告」される記憶は、観客としての私が訪れたことのない土地や出会わなかった人のこと、体験しえなかったこと、ここではないもの、ここにはないものをその距離と共に想像させるものだった。

『今あなたが「わたし」と指差した方向の行く先を探すこと2』における展示では、演出的な操作統率されているわけではなく、在り方は基本的に展示されている個々にまかされているということだった。

時間によって何かイベントが起こっている場合もあったようだが、私が入った時間は特に何も行なわれていない時間だった。それぞれに音響機材を触っていたり、壁面に絵を描いていたり、豆を煮ていたり、ダイニングテーブルのような机の置かれた椅子に掛けて何かしていたりする。展示されている人同士普段のように話したり、見に来た人と会話もする。展示中の人がカメラを構えて展示中の人にインタビューを撮り始めたりする。それぞれの行為はそのことだけに集中して行なわれているのでなく会話をしている途中に関係のない動作が差し挟まれたり、観客がそれに巻き込まれることもある。

日常と非日常、見る、見られるの狭間にあるような場を設える意図、そのバランスが傾かないように、シーソー状態を維持することが空間を構成する人たちに課せられている。日常的な会話や所作だけでなく、特別な表現技法を身に付けた体で何かを物語るのでもない。質は違うがどちらもその先には「他者」が想定されている。「他者」との間で生成する「わたし」というものの状態を日常でも非日常でもない、そのどちらの衣服を着込むことのできないところに積極的に体を据えようとし、そこから覆うことで名乗られるような「わたし」でない「わたし」を露出させようとしているように思われた。

訪れた人はそこで場を共有する一種の責任を負うことになり、鑑賞するだけでは済まされないという強制力。この引き入れ方によって単に見るという立ち位置よりもう少し幅をもった知覚を広げることのできる観客もあればそれをこころよく感じない観客もあるだろう。
展示者はどのような状況が発生してもその時にその場を引き受けなければならず、そういう場に体を開くことに少なからず意義はあると思う。
訪れた観客は入った瞬間からその場の構成因子となってしまい、その影響は展示者に反映されて現在進行形の時間のなかに組み込まれる。そしてそれはその場にいる観客自身にはね返ってくるものである。

この企画の人間展示は、どこかでも誰かでもなく、ここにある「わたし」にとっての「あなた」と「あなた」にとっての「わたし」、相互の影響のなかに立ちあらわれるものそれ自体であると言える部分はあったが、観客として訪れた私にはどことなく魚の小骨が引っ掛かったような体感が残っていた。場で発生する展示者と鑑賞者の関係性が対等な立ち位置でのダイアローグであったと言い切れないところがあり、引っ掛かりは展示者に特権性がどうしても発生してしまうということだった。一見して開かれた場を設えようとしているのにもかかわらず。会話しているはずなのにモノローグに荷担しているようなときのどことなく曇った体感がどうしても拭えない部分があったのだ。これは何かを意図して仕掛けた側とそれを見に来る側である以上仕方のないことなのだろうか。鑑賞者が作品に関わりを持つこと、そういうときの鑑賞者の体にとっての豊かさとはなんだろうかと、そのことを数日、今も考えている。


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