figromage

流出雑記 

オレンジの橋がかり

2009年06月03日 | Weblog
『ブリッジ』というドキュメンタリー映画を観た。
サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ。
全長2737メートル水面までは227メートルの吊橋。
美しい弧を描く印象的な朱色の橋は観光名所であり、自殺の名所でもある。
『ブリッジ』は橋を行き交う人、季節や時刻によって変わる様々な橋の表情を眺めながら、そこから飛び降りた人々の家族や友人、目撃者、奇跡的に一命を取り留めた自殺者本人へのインタビューで構成されている。
実際に橋から飛び降りた瞬間を捉えたシーンも幾つかあった。カメラできちんと追えない速度で落下し、水しぶきがあがる。
飛び込んだ人のほとんどは精神疾患が原因で比較的若い。

浴室、納屋、森、ビル…いろんな場所での自殺があるがゴールデンゲートブリッジを選ぶ人々がいる。
車や人が常に行き交う橋の上から飛び降りるにはどうしても人目に触れることになる。
実際の映像には今にも飛び降りるという人を横目で見ながら通り過ぎる人、車の窓越しに目撃する人、歩道に引きずり降ろして助ける人、言葉をかける人、説得する警備隊などの姿。

何かをする人とそれを見る人。
その間にはどのような濃度にせよある関係性、ある物語が生まれる。

ゴールデンゲートブリッジから飛び降りるということは、死ぬということを『』入れるような意識があるように思う。
まるで『死ぬ』ということを演じるような意識の要素を感じた。その意識が事を実行させる推進力として加担しているように思えた。もちろん飛び降りれば実際に死ぬ事は理解した上で。
死ぬのでなく『死ぬ』ということをする。
選ばれた舞台である橋。ピリオドの打ち方を、ある日決心をしてそこへやってくる。

死への橋がかりを歩む「私」は散歩や観光やドライブの人々とすれ違う。
今日も明日も生きるであろう人々と死ににいく「私」。
その温度差は否応なしに「私」の輪郭を浮かび上がらせる。
「私」を掌握することと手放すことが同じことであるような飛び降りた瞬間、一瞬の恍惚。

というのは私の想像で美化した見解だろうか。
実際はもっと絶望に包まれて感覚は萎縮しているのかも知れないし、止むに止まれぬものに追われて背中を押され、自分もその他のものも受け入れ不可となった場所を投げ捨てるようなことで、体感する余裕もないままに着水するのかも知れない。
それとも目の前に広がる風景に目を奪われたり、肌に風を感じたり、巨大な建造物の上にいるときのすがすがしさを連れて行くのだろうか。飛び降りた場合の生存率は2%。

ゴールデンゲートブリッジはインターナショナルオレンジという色で、霧が多いため視認性を考慮しこの鮮やかな朱色が選ばれたらしい。
この色は緊急事態を表す色でもあるそう。

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
yyynnn (死んでもいい場合)
2009-06-12 13:18:59
「ブリッジ」観てないけど、最悪の映画だろうなと思ってました。
micaさんの読みは正しいと思うけれど、やっぱり美化していると思います。
デヴィッド・ボウイはかつて「私はステージの上で死にたい」と発言している。理由は、
自分はスターである。スターは群衆にとっての希望であり、つまり群衆の不満や絶望が生み出した偶像である。だから、スターが不要になったときに、群衆は本当に幸福になったといえるから
と、いうようなこと。ちなみにこの発言はジョン・レノン殺害より前。なんか違和感の残る発言だけど、人が死を認めてもいい場合というのは、こうしたある思想の達成に直結する場合のみだと思う。
あるいは三島由紀夫の死、あるいは自爆テロ、そういう政治的な自殺は、自殺でなければ表現できなかったことが巨大に在った、という意味で、僕は愚かしいことだと思うけれども、人間の愚かしさを直に暴いたという意味で、認める。
では橋から飛び降りるのは認めないのかというと、まさしく認めない。舞台としての橋というのは実は「命には死に場所が用意されている」というごく短絡的な宗教性の表現で、信仰心のなかでももっとも低級である。せめて死に意味を後付けしたいというみっともない願望から来ている。みなひとりで死にたくないのだ。だからみせびらかしに来る。それは演技じゃない。かまってほしいだけである。自殺したのは、死くらいしか売り物がなかったからだ、そういう人間を私は構わない。
なんか最近の突発性犯罪者にも同じ器の小ささを感じる。ネオむぎ茶とか、酒鬼薔薇とか、秋葉原の通り魔とか、みんな同い年なんだけど。自分の人生賭けたのに、世の中なんにも変えてないじゃん。精神異常者として、社会のなかの一現象として処理されただけだ。ジャックしたバスで国会議事堂に突っ込むことだってできたんだぜ。その裏には生きることに対する想像力のなさ、精神的な搾取の現状がある。そこから
僕たちが学ばなくちゃいけないのは、せめて自分の命には価値があるってことだ。死は有効に使おうぜ。ルパンⅢ世もゴルゴ13もまだ死んでないんだから。
返信する
yyynnn (生きていれば済む場合)
2009-06-13 17:21:51
追記させてください
しかしながら目の前で死のうとしている人間がいるとき、放っておけるはずがないとも思う、ということは
どんな形であれ自ら死んでゆく人々(見ず知らずの人々だとしても)を見送らざるを得ないとき(それは常態なのだけれど)、その見送りの眼はやはり美化なのではないだろうか とすると人間は美を喪ったら生きることができないのだろうか 本当に?
倫理は美を裏付けている唯一のものだろうか?
てことを地下鉄のホームで、空の線路が川のように見えてそんな風に考えました
結論は出ません しかし生きるということは結論を出さないということに結局なってるんじゃないか

返信する
Unknown (mica)
2009-06-16 02:25:06
私は飛び降りることを妙な積極性をもって身に引き寄せて考えていました。
その死にまつわる外側のこと、問題性、本人の心境などは置いといて、あの橋にやってきて飛び降りるときの体感を想像していた。
気持ちよいのだろうと思った。
既に世界の広がりを感じられず、世界は自分の呼気で曇るほど萎縮した、あるいはどこにも所在を見いだせないほど散乱している自分を連れて悠然とたつ橋の上、眼下に広がる風景に身を投じる開放感と架空の荷物と孤独を背負って殉教者さながらに死ねる。
そのための舞台と観客が必要であっても、世界に作用することも影響されることも諦めたのだから表現への積極性、その点の創意工夫は必要ない。何かを伝えるためではないし世の中を変えるという気概もおそらくない。
しかし実行には度胸が必要でその為に芝居の要素、ヒロイズムが動員される。
他者の視線を利用する。他者との交渉を断絶する覚悟のはずだがこの企てには他者が必要なのだった。
それはちょっとずるい。
私はあなたに届かない私は誰にも届かない
という想像の持久力のなさは瞬発的なピリオドとなって、なのに「点」では嫌なのだ。尾びれやせびれで飾られたい。でもそういう心境はわからなくはなかった。
死にたい人は死ねばいいし私は否定も肯定もしない というふうに思っていた。認める認めないということも言えない。
美化するつもりはなく書き始めたが、私にとってこのことを取り扱う興味はそういう形容で言い表わすところのものでした。
あまりコメントに対するコメントになってないし、先に書いたことと重複してますが、そんなようなことをここ数日考えていました。
返信する
yyynn (livealive)
2009-06-16 15:14:37
読みながら、
先月の土曜日、渋谷にある、wombという割と大きめのクラブに踊りに行ったとき、満員の観衆に交じって、音楽とスモークとレーザーとブラックライトの中にいて、異様な恍惚感を感じていたことを思い出していました。
ある劇作家の言葉、「自分の息と他人の息の区別がないような」状態。それは究極の孤独なのかもしれない。死も生もきっと無い恍惚。私も他者もない恍惚。動物の恍惚。
その恍惚を恥ずかしがっている自分もいます。美化を逃げだ(そして美化からは逃げられない)と思っているからじゃなく、恥ずかしがってやっていくのも悪くないと思えるようになってきた。

ちなみに「自分の息と他人の息の区別がないような」はアウシュビッツのガス室について語られたもの。
この日記にこの言葉をコメントしたのは2度目です。
コメントらしくなりませんが、また読みたいです。
返信する

コメントを投稿