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流出雑記 

2015/7/30

2015年07月31日 | Weblog
陰翳礼讃を読み返していたらなんか無性に腹が立ってきた。

古き良き、生粋の日本文化の素晴らしさのなかで育っていない世代には身に覚えのない郷愁の情景が、それこそ饒舌な日本語で描きとられてにおいまで届いてくるのと、時々本気で読めない漢字につまずき携帯で検索する行為を差し挟む残念な感じのコントラストの狭間で羨ましいのと悔しいのと、そんなに昔ばかりがいいのかというのがない交ぜになって腹が立つ。

除菌消臭無味乾燥な現代の生活様式、陰翳はコンビニのネオンに24時間薄められ、蛍光灯の白けた明かりのしたでぺらぺらのファストファッションに身を包み、主に液晶を眺め、自分の居場所までSNSにさらす陰りのなさでも、そこからだって、詩的な豊かさを見出せると信じたい。

きっといつの時代もどんな場所でもむしろ人はどうしても陰翳を見出さずにはいられない。
いつの時代も共通して生きてる状態の命綱は死であるから、ものを見ることはその綱につなぎとめられて生きているこの体をとおすしかない。眼差したものが言葉のかたちをとるとき、そして眼差し自体からも、体が関与することを取り除くことは不可能で、つまり生の状態が反映されないわけにはいかない。

陰と近しく暮らしていた時代とは違うから、もっと目を凝らさないと今の陰翳は見えてこないかも知れない。
ただ現代の生活をアイロニカルに縁取るのでない言葉だって見つかる。そういう言葉を見つけたいとたぶん日々思っている。谷崎潤一郎には到底叶わなくても。

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