私たちは日々,私たちの生の持続の中で、無数に散らばっている瞬間の中から、選択するということが間に合わないほど瞬時に、反射的に、あるひとつの瞬間を知覚している。
その連続の中を生きている。
この生の持続の中で私たちは大まかな流れを選び、方向性を与え、それまでの体験、知識から場面場面での自分の身の置き方を規範に沿って選択つつ様々な事の起こりを渡ってゆく。
自分のあり方は、居合わせた人々やその場によって、つまり自分の意志と置かれた状況との間でその都度選択される。
そこでのバランスを取る事。それが、社会的に関係を持ち生きるということである。
企業などの団体に属する場合、明確な目的を伴いそこへの何かしらの貢献が評価となり、その評価が自らにとってのやりがい、価値となり、社会的自己の位置を明確にすることとなる。
今言ったようにその場に対して懸命になれない場合でも、働いているという時間と安定した収入と消費、余暇を得ることでこの持続を渡る人も居るだろう。
しかし、そこにはおそらく誰もが知った上で徹底的に無視されているものがある。
社会的自己の確立の為のルールに乗っ取った知覚と行為の範囲はごく限られたものだ。
そこには我慢ならない閉塞感がある。
「知覚とは自我と環境とのそのつど一度きりの出会いである」ヴァイツゼッカー
この言葉にあるような広がりを知覚する事の中に感じられないことはとても貧しいように思われる。
知覚における一回性、その偶然の関係の間に創造的なものを見いだしてゆく事を私は生の喜びと呼びたい。
時間は流れている。
私たちは持続、時間、それ自体とも言える。
日常の中では捕り逃し続けている「今」がある。
そんなふうに思う事がある。
舞台の上演とは、役者にも観客にとっても予定された「フィクショナルな出来事」の知覚の時間である。
創られた、造られる時間。
日常の中ではひたすらに過ぎてしまう時間、私たち、一瞬一瞬。
流れの中にある私たちは「今」を捕獲することが出来ない。
が、それは常に「今」のただ中にある為に自覚できず触れられないという事かもしれない。
あらかじめ予定された筋道において既に選択された瞬間を、進行の中で知覚し、発語、動作し上演を行う、「いま・ここ」で内容を産出する舞台表現は「今」に触れようとする欲望を孕んでいる。
社会的自己における知覚の範囲では封じられる知覚を、非日常である劇の場をしつらえ、その枷を外さざるを得ないところへ拡張させる場所である。
それは目を向ける間もなく、社会的自己の知覚においては取り落としたものをもう一度手に取るように、あるひとつの行為について考える契機であり、この考える事こそが「今」である自らと対峙する思う方法では無いかと思う。
その連続の中を生きている。
この生の持続の中で私たちは大まかな流れを選び、方向性を与え、それまでの体験、知識から場面場面での自分の身の置き方を規範に沿って選択つつ様々な事の起こりを渡ってゆく。
自分のあり方は、居合わせた人々やその場によって、つまり自分の意志と置かれた状況との間でその都度選択される。
そこでのバランスを取る事。それが、社会的に関係を持ち生きるということである。
企業などの団体に属する場合、明確な目的を伴いそこへの何かしらの貢献が評価となり、その評価が自らにとってのやりがい、価値となり、社会的自己の位置を明確にすることとなる。
今言ったようにその場に対して懸命になれない場合でも、働いているという時間と安定した収入と消費、余暇を得ることでこの持続を渡る人も居るだろう。
しかし、そこにはおそらく誰もが知った上で徹底的に無視されているものがある。
社会的自己の確立の為のルールに乗っ取った知覚と行為の範囲はごく限られたものだ。
そこには我慢ならない閉塞感がある。
「知覚とは自我と環境とのそのつど一度きりの出会いである」ヴァイツゼッカー
この言葉にあるような広がりを知覚する事の中に感じられないことはとても貧しいように思われる。
知覚における一回性、その偶然の関係の間に創造的なものを見いだしてゆく事を私は生の喜びと呼びたい。
時間は流れている。
私たちは持続、時間、それ自体とも言える。
日常の中では捕り逃し続けている「今」がある。
そんなふうに思う事がある。
舞台の上演とは、役者にも観客にとっても予定された「フィクショナルな出来事」の知覚の時間である。
創られた、造られる時間。
日常の中ではひたすらに過ぎてしまう時間、私たち、一瞬一瞬。
流れの中にある私たちは「今」を捕獲することが出来ない。
が、それは常に「今」のただ中にある為に自覚できず触れられないという事かもしれない。
あらかじめ予定された筋道において既に選択された瞬間を、進行の中で知覚し、発語、動作し上演を行う、「いま・ここ」で内容を産出する舞台表現は「今」に触れようとする欲望を孕んでいる。
社会的自己における知覚の範囲では封じられる知覚を、非日常である劇の場をしつらえ、その枷を外さざるを得ないところへ拡張させる場所である。
それは目を向ける間もなく、社会的自己の知覚においては取り落としたものをもう一度手に取るように、あるひとつの行為について考える契機であり、この考える事こそが「今」である自らと対峙する思う方法では無いかと思う。
しかしあるとき不意に「いま」にぶつかり、はたと自分が過不足なく存在していることの不思議に気付いてしまう。それは現在という極小の地点に遭遇することであり、ひるがえって全宇宙をつくりあげる存在の歴史そのものに出会う体験だ。風景の意味が変わり、自己と他者と世界の序列がなくなる。スイッチを踏んだように、ふとそれは起こるのだ。
私はその「今スイッチ」はどこにあるのだろうということよりも、そのとき私はどんな顔をしているのだろうかということが気になる。
「今」に出会ったひとの顔は、自己からも遊離したふぬけのような顔であり、といって描写できるような顔ではない。類型はないのだ。笑っているかもしれないし、怒っているかもしれないが、どこかこちらを見据えていない、そんな顔だ。記号になりきれない顔である。
私はここで高野文子のマンガ『黄色い本』を思い出している。主人公の少女の顔はどこか間が抜けているが、それは彼女がバカだからではない。ただ、顔がキマっていないのである。どこかの本で読んだ→『黄色い本』は写真写りの悪い顔ばかりによって描かれている。そう思う。写真写りの悪い顔は役割が決まっていないものの顔であり、それがどんな表情であれ一種の不安さがある。今に出会うこととは、役割がなくなるということではないか。役割がなくなるということがフィクションのなかで実現されたとき、そこに後ろめたいほどのリアリティが生まれる。確立された役割の調和によって成立する大多数のフィクションのリアリティの甘美さに対して、それを「苦いリアリティ」と呼んでいいかどうか。ともかく私が高野文子のマンガを好きなのはそういう手法を使う珍しい表現者だからだ。
私は写真うつりの悪い顔を描いたものが見たいという気がする。フィクションに対する欲望はそれだけでは決してないけれど、ただ「写真うつりが悪い」ということは自己と社会とのズレを自覚する不気味な契機だと思うし、またそんな抜けた顔で私も生きているだろうから。
↓こういうのは社会的な顔、記号的な顔で、記念写真のようだといえる。
b(⌒o⌒)d おっ \(*^▽^*)/ はぁー!!
( ´_ゝ`)ノボンジュール♪
Σ(゜д゜;) ヌオォ!?
壁|・_・)ノ
↓写真写りの悪い顔の絵文字。
おっ(op@ll)/はあー
べつに(a</o)ええ
筑前(~iw-。)煮か。
(/*v+/)ファイトーー!
雲|(?l,?)ノ
「今」に出くわした時の顔、表情 それがどんなふうになっているのか。
今に出会うこととは、役割がなくなるということ。
役割がなくなるということがフィクションのなかで実現されたとき
その表情とはどのようにあらわれるのか。
フィクションのなかで演じる上で役、役割がなくなるということを「素に戻る」と言われるが、その「素」とはどういうものかというと、日常の人称性のうちにあり、そこにあらわれる表情も生まれ育った文化の中で学習したものの枠を超えない顔である。そこには意識の介入もあり、記号として機能しているものと言える。
記号化できない顔 というもの。
まず広告なんかには使われることのないような顔。
写真写りの悪い顔。
本人の意図でなく、また段階的に何かを表現する途上である訳でなく、もうそれとしてあらわれてしまっている顔。
でもそもそも私たちは存在としても、この世にそれとしてあらわれてしまっているものだ。
あらわれてしまった
この中にはあるどうしようもなさ、根源的な根拠の無さや不安があり、そこには「苦いリアリティ」というものを感じる所もあると思う。
日常的な段階の喜怒哀楽のような明瞭さも愛想笑いのような繕いでも無表情というニュートラルな構えでもない。
記号になりきれない 顔。よめない顔。
きまらない顔。
考えた事が無い。
ちょっと「黄色い本」買ってきます。うちには「棒がいっぽん」しかない。
役割のない状態、記号でない顔といいつつ、わたしたちはそこに過不足なく存在しているというそのもののこと、そうだよなあ、と深く考えさせられるものがありました。
記号化できない、ということも私たちは日常のなかで体験している以上、記号にならないということも記号でありボキャブラリーに加えられるだろうから。
考え方に無理があったのかもしれません、考え方変えます。
すべては程度の問題である。
自己も他者も社会も素も垣根なく、その都度、程度によって現前する。「私」とはその配合率の変動のことなのだと。
『棒がいっぽん」も僕大好きです。
最初に載っている団地を舞台にした話の、奥さんがカーテンの裏みたいな狭いばしょで男たちの会議を聞いているシーンが忘れられません。
ところで、
先日酒場でめぐりあったひとが、面白いこと言っていました。
「ナルシシズムはマゾヒズムなんですよ」
「えっ、なんですか」
「自己愛は誰でも持っているが、その愛の対象である自分はそもそも親という他人から発生したものである。だからナルシシズムは結実しない、不完全で矛盾をともなう概念です」
「そりゃあそうですが、そう言っちゃうと実も蓋もないでしょう」
「そう。実も蓋もないんですよ」
「でも。日常そのようにかんがえられますかね、自分を」
「かんがえてはいないかもしれませんが、ふつう家族を他人とは思えないでしょう。自分の根拠は外界に依存しているんですよ。直接的に」
「しかし、それとこれとは話が別では。私は私が私でないと思えるのかどうかという意味でいっているわけで」
「それはどの『私』ですか」
「というか、つきつめてもきりのないものが『私』なのではないですか」
「だから。その「私』はそもそも他者の子として産まれてきた人間でしょう」
「そういう何でも『そもそも』っていいかたは僕は好きじゃないな」
「でもさっき『そりゃあそうだ』って肯定してたじゃないですか」
「しかし好き嫌いは別問題でしょう。僕はあなたがそんなに割切ってるのが胡散臭いんですよ」
「私は疑いようのないことを疑ってないだけだ。なぜなら疑いようがないから。割り切ってるとかそういう問題ではない」
「それを割り切るっていうんですよ、ふつう。疑いようがないことと疑わしいことは違う」
「じゃああなたは唯我独尊で生きてるのか。純粋な自己愛で生きてるのか。」
「そういうわけじゃないが」
「じゃあ認めるんですね」
「認めるが疑わしいんだ。そう言ってるじゃないですか。ビール」
「つまり何が言いたいんですか。こっちにもビール」
こういう抽象的なやりとりがありました。
考え方を変えようとしても衝突します。
最終的には『性格』の問題かもしれません。
「私」は私以外のものによってその都度「私」として成り立っている
「私」の、その発生も確かに他者の要素の結合ではあるけケド
「自分の根拠は外界に依存している」と言い切ってしまえないところを感じます。
「私の死」ということがある。
借金で自殺とか脱線事故とか社会的な事情や不可抗力で死ぬことはあるだろうが、言いたいのは死因のことでなくて。
「最も自己固有の、他の何者とも没交渉的であり、確実でいてしかも不定の追い越す事の出来ない可能性」
としての死がある。
死を外界に依存することはできるだろうか。
死に方ではなく、死自体を。
「私の死」の可能性は既にあり、常に接しているものであるが実体はなく、また私の死を経験する時私は死ぬので「死んだ」と言う事もそれを得ることも出来ず「死」は私にとって永遠に可能性であり、ただその可能性だけはどうしても外界への依存ができないものである。
他者の間で偶発的に発生し、この世界のなかでその都度、環境、状況によって変動する配合率、その現前 として生きている「私」がそれでも散逸せず「私」として在る理由は「死」という固有の可能性にくくられているためではないか。自分の根拠は外界に依存していると言い切る事はどこか逃げ腰感があるように思える。
私、去年花屋でバイトしてた時に、「私の存在は他者にたくされているのだろうか」と思ってしまいました。
「自分の根拠は外界に依存している」と、社会の中で、仕事しているとそんなふうに思えてくるのかも知れない。
死に方ではなく、死自体を。
死ぬという可能性を根拠づけるものはない。たしかに「没交渉的」であり「固有」のものだ。命はどうしても死ぬ。そこに例外はなく、理由もない。
まさにいうとおり、外界に由来することができるのは、死のタイミング(死期)、方法(死因)、状態(死体)、理由(遺志)、など死の解釈可能性であり、面白がってシを使うとそれは「視使史志誌詩としての死」だ。要するに社会がどうこうするのは「死の価値」である。
しかし「死すこと」そのものは誰のせいでもない。没交渉的、固有。
そういった意味では「死」は「私」が私(ひそ)かに持っているもの、あるいは待っているものなのだろうか。
いや。「死」は「私」の所有物ですらない。遍なものでもあるはずだ。
死と私は「私的」なものではなく「自動的」なものだ。
だからこそやはりその「自動的」の響きに外界の広さを感じる。もちろん人間が言語的関係性のなかで生老病死する社会のような外界ではない。命あるかぎりの外界でありもっと広い。カエルだってオケラだってアメンボだってみんなみんな死んでゆくんだ友達なんだと際限なく広げてゆくと有機物無機物暗黒物質含む茫漠たる環境になりそれはもうイメージするしかない外界である。すると「イメージ」は「私」に還ってくるだろう。だから私と死はどちらの所有物でもなく、ただ表裏序列のない対である。
そのことはパワーズオブテンの美しい例でもって以前ここで描写されていたことがあってよく覚えている。
社会と外界に死と私の根拠を求めず逃げ腰にならず考えようとするとこういうことになると思うがどうでしょう。
僕はこっちの私と死もまたなんか逃げ腰とはいわないが少しうさんくさいと思うのです。
話が飛躍している気がするが、このような考え方は痛くも痒くもないという気もする。痛かったり痒かったりするのが何より大事だというのではない(本心だ。痛くも痒くも空腹も金欠も別れ話も後悔もない毎日を一度でいいから送ってみたい。それには不老不死になるのが一番だ)が、それはそれで落ち着きが悪いのではないか、とも思う。思うが、ちょうどいい落ち着きどころがないから面倒に生きて暮らしているし面倒を愛しているし憎んでいるが、結局は愛しているのではないか。自動的に。
トンボやカエルやアメンボのことを時々完全に忘れている。ということに気付きました。
「生」から存在を考えて行くと「生」にはいずれ不可能になるということが出てくる。
「生」に有限性を与えているのは「死」であり、また有限であるからこそ「生」は「生」としてあることが出来る。
「死」を「生」の不可能性としてでなく、「死」そのものはすべてのものにまったく均等に与えられた可能性であると考えると、先に言われたように 茫漠たるイメージするしかない外界が広がり、すべてのものが「私」に還ってくるというか繋がるというか、そういうところに至ります。
それにはある種救いになるようなところがある。
しかし「すべてはこれでよい」と言って溶けてゆく なんてことはないし、救いとして寄りかかって生きるのは胡散臭いと思います。
だって私たちは今日もちゃぶ台の世界にばっちりいる。
今日は肉か魚か、ポッカかクノールか、トイレットペーパーがなくなりかけていたような気がする、どうしても辞めたいことは辞めてもいいだろうか、まだ今月半分以上あるのに食費の残高が半分以下になっている、喉がちょっと痛い…
日々之好日
日々之口実
でも
それもわりと好きだった。
「だから、みんな死んでしまえばいいのに、、、」と「これでいいのだ」のどちらにも至れずどうしようもなくあらわれてしまった私たちの面倒な日常。
その面倒は書いても書いても尽きない。
喉の小骨。
喉の渇き。
喉の痛み。
かぜをひきやすい季節になりましたね。
生姜湯オススメ。
だから動かされてやりとりの中で自分の狭い視野から、そういえば広い世界に、そして自分が今居る場所に気付かされてはっっとする。
イイナー。
生姜湯好き。
アリガトウございます