2時半就寝10時半起床。
伊丹のアイホールに舞台を見に行く。
2時半伊丹に着き、3時からの公演を見る。
『迷路』という作品。
照明器具などを吊るグリットが室内の天井くらいの高さまで下ろされていて、そこにワイヤーを張って舞台全面シーツが干されて空間は迷路状態になっている。
舞台はある城の広大な庭 庭にシーツが一面に干されているのだ。
そこに労働者として囚われた男、その城の主と娘、などが出てくる。
ところが舞台が数十分進んだ辺りで突然照明が落ちた。
進行の中の暗転ではないし、スタッフがブレーカーを見に行っているような小走りの音と客席の不安げな空気、一瞬止まったが暗闇の中喋り続ける役者。
しばらくして作業用の水銀灯の明かりがついた。
演出家が役者の演技を止める、しばし舞台に放置された「役者」たちの置き所のない体。
照明はすぐに復旧しないようだが、このまま作業灯の中で続行しますと演出家のたどたどしい説明と謝罪があり、続きが始まる。
作業灯は白く明るすぎて、素っ気なく白いシーツがよりそれを強調し、役者が演技を重ねるほどすべてバラされていくような虚しさが募る。
終演後どうするのだろうとぼんやり考えながら、物語は終わる気配になった。
終わったな と思った時に急に舞台と何の関係もないようなノイジーな音楽が流れ、シーツの干されたグリットが幕が上がるようにしてのぼっていく。
何もなくなった舞台の中央に出演者、演出家が格好良く並んでいる。
演出家は後ろを向いた。彼の背中には紙が貼付けられ、こう書かれていた。
「全部ウソ」
その瞬間照明が思いっきり付いて、出演者、演出家は奥の搬入口から逃げ去った。
つまり、照明のトラブルも、演出家の謝罪も、放置された役者もすべてが仕組まれたことであった。
演劇はつくり事である。
観客はそれを知りながら芝居の中の役者を、物語を観にやってくる。
劇場という箱の中、観客は安心してつくり事を鑑賞する。
そのとき舞台の機構自体に何らかの不具合、特に照明が落ちるということは芝居の中では致命傷だ。
それを敢えて演出に組み込むということは、はなから物語を演技によって語ることをしたかったのではなく、劇場にいる観客に演技や物語による感動ではない揺さぶりをかけたかったということになる。
動揺というのだろうか。途中で観客は否応無くさめさせられる。そして一同、何かしらトラブルに遭遇してしまった連帯とまでは言えないようなうっすらとした連帯感に包まれる。
舞台を観ている意識されない自分から突然観に来た着席している自分たちに引き戻され、観客はそこでその時にその場に「立ち会っている」という感覚を持たされざるを得ない。
これはかなり強制的なやりかたであるし、してやられたという明瞭な感覚もあらかじめ土産として用意されている。中には怒る人もあるだろうけど。
一度きりであろうこの方法を試されたのだろうが、次に何をするのかは考えどころではないか。
観客を舞台に引きずり込むということは容易ではない。
でも人間を見入ってしまう瞬間を諦めたくないと思う。
舞台の上で人は晒されなくてはならないが、それがどのようにすれば可能になるか と思う。
伊丹のアイホールに舞台を見に行く。
2時半伊丹に着き、3時からの公演を見る。
『迷路』という作品。
照明器具などを吊るグリットが室内の天井くらいの高さまで下ろされていて、そこにワイヤーを張って舞台全面シーツが干されて空間は迷路状態になっている。
舞台はある城の広大な庭 庭にシーツが一面に干されているのだ。
そこに労働者として囚われた男、その城の主と娘、などが出てくる。
ところが舞台が数十分進んだ辺りで突然照明が落ちた。
進行の中の暗転ではないし、スタッフがブレーカーを見に行っているような小走りの音と客席の不安げな空気、一瞬止まったが暗闇の中喋り続ける役者。
しばらくして作業用の水銀灯の明かりがついた。
演出家が役者の演技を止める、しばし舞台に放置された「役者」たちの置き所のない体。
照明はすぐに復旧しないようだが、このまま作業灯の中で続行しますと演出家のたどたどしい説明と謝罪があり、続きが始まる。
作業灯は白く明るすぎて、素っ気なく白いシーツがよりそれを強調し、役者が演技を重ねるほどすべてバラされていくような虚しさが募る。
終演後どうするのだろうとぼんやり考えながら、物語は終わる気配になった。
終わったな と思った時に急に舞台と何の関係もないようなノイジーな音楽が流れ、シーツの干されたグリットが幕が上がるようにしてのぼっていく。
何もなくなった舞台の中央に出演者、演出家が格好良く並んでいる。
演出家は後ろを向いた。彼の背中には紙が貼付けられ、こう書かれていた。
「全部ウソ」
その瞬間照明が思いっきり付いて、出演者、演出家は奥の搬入口から逃げ去った。
つまり、照明のトラブルも、演出家の謝罪も、放置された役者もすべてが仕組まれたことであった。
演劇はつくり事である。
観客はそれを知りながら芝居の中の役者を、物語を観にやってくる。
劇場という箱の中、観客は安心してつくり事を鑑賞する。
そのとき舞台の機構自体に何らかの不具合、特に照明が落ちるということは芝居の中では致命傷だ。
それを敢えて演出に組み込むということは、はなから物語を演技によって語ることをしたかったのではなく、劇場にいる観客に演技や物語による感動ではない揺さぶりをかけたかったということになる。
動揺というのだろうか。途中で観客は否応無くさめさせられる。そして一同、何かしらトラブルに遭遇してしまった連帯とまでは言えないようなうっすらとした連帯感に包まれる。
舞台を観ている意識されない自分から突然観に来た着席している自分たちに引き戻され、観客はそこでその時にその場に「立ち会っている」という感覚を持たされざるを得ない。
これはかなり強制的なやりかたであるし、してやられたという明瞭な感覚もあらかじめ土産として用意されている。中には怒る人もあるだろうけど。
一度きりであろうこの方法を試されたのだろうが、次に何をするのかは考えどころではないか。
観客を舞台に引きずり込むということは容易ではない。
でも人間を見入ってしまう瞬間を諦めたくないと思う。
舞台の上で人は晒されなくてはならないが、それがどのようにすれば可能になるか と思う。