建築は社会のストックを活用する時代に入ってきたと最近言われるようになった。
今残したい風景について報告する機会を与えられている。ある会報誌のための執筆である。
前橋もゆっくりながら姿を変えてきている。その中で何が残って欲しいのだろうか。
忙しさにかまけて足元を見ない生活が長すぎた。
前橋の中心部が「地名」から「住居表示」に変わってから久しい。
元は「連雀町」という地名の町内だった。
全国的にも点在する地名で隣の高崎市には現存する。
「連雀」はにぎやかな場所を指すことのようで前橋の連雀町は貞享元年(1683年徳川綱吉の時代)の「前橋風土記」にその町名が記されているとされている。
連雀町の中心であったえびす通りの南北に伸びる通りを北に向かうと旧利根川の右岸崖線を下り、旧河床に形成された桑町通り、さらに弁天通を抜けて小柳町から才川町に至り、旧利根川の左岸の鎌倉坂を登り赤城山に至る南北の軸線である。
子供の頃に記憶では桑町通りなどは日曜日など混雑で歩くのもままならなかった。赤城商会の角には反対側に麻屋デパートの威容を誇り、小さな店にも多くの客が出入りしていた。
これらの旧町名も廃止になってから50年以上立ったから自分の年代でも正確に記憶しているか怪しい。
旧町は表通りを挟んで左右の町屋で構成されていたのに対し、住居表示のための新町名は表通りに囲まれた区画を指すようになったようだ。連雀町も東側が本町二丁目、西側が本町一丁目と言った具合。本町は旧隣町の地名を引き継いだ。一方、千代田町、大手町、三河町、表町等突然できた町名もある。歴史的文脈とは一切関係無しで出来た町名である。すでにその町名のもとで生まれた人も50歳を越えようという現在、過去を懐かしがっても意味のないことかもしれないが、都市再生を論議することが多くなってきた現在、「温故知新」、前橋の歴史をもう一度見つめ直すことも再生への手がかりとなるのではないだろうか。