市役所のBランチ かけうどん、コロッケ、サラダ、八宝菜丼
結構すごいメニュー。・・・
朝、少しずつ歩き始めた。神明様の前で小沼さんとすれ違う。6時おきで歩いているとのこと。
まだ前橋公園に下りない短縮順路。
体が慣れてきたら勧銀の坂、諏訪橋西詰め、前橋文学館、比刀根橋、厩橋、雷神橋、など広瀬川河畔を歩き、神明町の小路を源英寺の墓地の石塀沿いに風呂川の堤まで登る。
臨江閣の下の階段をくだり前橋公園に出て幸の池沿いをしばらく歩く。もとの検察庁の下の階段を再び上り群馬県警の裏から県庁内に入り、本庁舎のロビーを横切る。
県庁前通りを横切り市役所の前から市立図書館の庭を抜け、カソリック協会の裏から国民金融公庫の信号を渡る。締めて50分8000歩の順路。
神明町から先は米軍の空襲での消失を免れている地域なので、明治、大正、戦前の昭和の雰囲気を残している。
写真の石川橋からみた広瀬側の界隈の様子は室生犀星や萩原朔太郎が遊んだころの面影を強く残しているとのこと。
しかしまもなく作り変えられる。何の名物の無い前橋のこと、こんな小さな橋一つぐらい前橋が華やかだったころの記念に残しておいてもよさそうなものを。
そう、過去の記憶といえば今日も比刀根橋のたもとの防空壕のあとの記念碑には千羽鶴が手向けて合った。535人以上の民間人が米軍によって虐殺された昭和20年8月5日の夜、多く方がここで亡くなったのだ。
自分がものごころついたころ広瀬側にかかる橋の欄干が無かった。戦争中に金属供出で持ち去られたとのこと。当時も水の勢いは強かったからとてもこわっかった記憶がある。
町名が拙速に変えられてから大分経つ。
自分が育った家は連雀町23番地。生まれたのは隣のお産婆さんの家。
本町、相生町、田町、堀川町、田中町、前代田町、桑町、紺屋町、榎町、小柳町、芳町、立川町。これが中央小学校の校区。
隣の桃井小学校区が曲輪町、南曲輪町、北曲輪町、石川町、紅雲町、神明町、
あとは・・・・・
千代田町、大手町、文京町、・・・最悪でしょう。東京コンプレックス丸出し、利害関係の調整が出来ず妥協の産物。本町、紅雲町、あたりがかろうじて面目を保つ。いまだに千代田町4丁目がどこだか見当がつかない。
そうだ。このブログは旧町名で書こう。何の責任も無いことだし。
仕事は計画仕事を仕事場でぼちぼち。来月分の仕込み。
新前橋の住宅は湧水は止まらないものの排水溝を掘り、水中ポンプで汲みながら進行。