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2022 備忘録

思いついたことを書き残す。

たぬき亭、高橋廣美さん逝く

2022年06月13日 | 訃報

30年から建築設計に携わり多くの建築に立ち会ってきたが「たぬき亭」の仕事は記憶に深く残るものの一つだ。

https://www.tanukitei.com/

急なお知らせ、本当に驚きともに悲しみが湧き上がってまいります。2002年に前橋の初日総本店の昨年亡くなった鈴木社長のお引き合わせでお目にかかって以来長いご厚情を賜りましたことに改めて感謝の年でいっぱいです。
仕事を離れても、なぜか仕事に行き詰まったときに元気が欲しくて丸子のご自宅を訪問していたような気がします。同じ経営者として背中を押してほしい、そのような気持ちからでした。

奥様にも大変良くしていただきました。いつもご夫婦仲良く応対していただき、ありがとうございました。さぞお気き落ちのことと存じますがどうぞご自愛のほどお祈り申し上げます。

飲食店のこと、また趣味の盆栽のお話など時が経つのも忘れて拝聴しておりました。いつかはお別れになるのは世の常とは申せ、コロナ禍騒動がなければもっとお話が聞きたかったと思います。今年の夏にはぜひ伺いたいと思っていた矢先の訃報でした。

 


級友、旧友、鈴木憲保さん逝く

2021年08月21日 | 訃報


今朝(8月21日)訃報があり家族葬にするのでその前によかったら会って欲しいとのことだったので店にお伺いし、対面したがまるで眠っているようで死ということが信じられない思いだった。
今日も店は営業中。コロナ禍でもなければ盛大に見送るところだろうが少々寂しいお別れになってしまった。飲食店経営に様々なアイディアで挑戦して良くも悪くも玄人だった。



同じ町内で生まれ同じ小学校に上がったのが62年前、以来長い付き合いになった。
社会に出てからは疎遠になっていたが1999年に彼が経営する「初日総本店」の移転新築の仕事の依頼を同じく同級生の紹介で受け設計監理を手がけさせていただいた。その後も前橋でも繁盛店として現在に至っている。
JIA北関東甲信越の学生作品コンクールの前夜祭はいつもこちらを利用させていただいていた。

ずっと以前から体調が優れないことは知っていたがいつも回復し、元気とは言えないまでもいつもの感じでいくることを楽しんでいたと思う。
井瀬さんの「向島」で入院前に飲んでいるからと沙汰があり少しの時間をともにした。もう3年も前のことだろうか。
最近、岩崎明さんの旧宅をギャラリーに改装し収集した美術品の陳列を楽しんでいた矢先の急な最後となってしまったらしい。
いずれにせよ最後まで夢を持って生きてきた彼らしい最後であったと言えよう。

自分もこう在りたい。

ご冥福を祈る。合掌

齋藤孝彦さん逝く

2021年08月16日 | 訃報
病のことを淡々と客観的にお話されていたのが真新しい記憶の中にあります。
この冷静さこそが建築家の資質と表裏一体のものであったのでしょう。
残念です。

建築家という職能は欧米のキリスト教を背景とする文化によって育まれてきたものであり、明治期に導入されたといっても日本古来の文化との整合性が真剣に問われないまま現在に続き「建築デザイナー」「建築士」と周辺の職業と混同ないしは誤認されたままになっています。
はたして日本における建築家の必要性、あり方、生き方を深く考える機会を持つことを忘れてはいけないと考え、齋藤孝彦さんに教えを請う機会に参加してきましたが、これからは自らがもっと深く考えていく時が来たようです。

改めて衷心よりご冥福をお祈りいたします。

雪国 井山計一さん亡くなる。

2021年05月12日 | 訃報
カクテル「雪国」の考案者の井山計一さんが5月10日亡くなる。享年95歳
酒田市の「ケルン」を訪れたのは2019年10月18日、JIA弘前大会の帰路立ち寄った。



8月の時点で店に問い合わせたところ体調を崩し、休んでいるとのこと。
前橋を出発する前に店に問い合わせたところ、時間はわからないが店に出ているとのことだったで帰路途中下車をすることにした。

秋田駅で軽く飲み、ホテルに荷物をおいて7時頃「ケルン」を訪れるとまもなく店に井山さんが降りてくるとのこと。しばらくすると登場し、早速「雪国」を注文する。
「雪国」をコンテストに出したときのことなど饒舌に語ってくれた。「マンハッタン」の増田さんもそうだったがカウンターの中の主役を長く務めてこられた洒落た雰囲気は長い時間が醸成されたものであろう。

青森・秋田への旅は日常から開放され記憶に多く残るものになった。その主役が亡くなるは寂しいものだ。時代が変わっていく。


加藤 誠洋さん、急逝

2020年12月25日 | 訃報

こんなこともあるのだ。交通事故で無念の死。しかもひき逃げ事故とは。
加藤さんとはそう親しい間柄ではない。JIA保存問題委員会の委員として知り合った。茨城や栃木で町並み保存再生という地味だが大変大切な仕事に関わっておられた。
今言われるところの古民家再生などという軽い仕事ではない。カメラとコーヒーという趣味人でもあった。コロナが一段落したら栃木の街の足跡をなぞってみたい。

竹内嘉一さん、逝く。 享年84歳 9月28日

2020年10月03日 | 訃報

セントポールギャラリーの創設者「竹内嘉一」さんが亡くなる。最初に出会ったのはかれこれ50年近く前だろうか。関口病院へ下る坂の途中に「ペルー」という喫茶店を営まれていた頃だ。
当時出入りしていた都丸という友人に誘われて行ったのかきっかけだ。お客は近所の若い人たち20歳から25歳位だったろうか、竹内さんは多分未だ40歳代。とにかく明るく元気。お客さんや竹内さんの家族も一緒に利根川でバーベキューをしたこともあった。

そのうちに版画の画廊セントポールギャラリーをはじめ石倉のマンションで営業を始めた。比較的手頃な作品が手に入ると合って贈答品にはよく利用させていただいた。しばらく疎遠になっていたが自分の開業直後に知り合ったGICC群馬インテリアコーディネーター協会の会員が同ギャラリーの出身であったことから再びおつきあいさせていただくようになった。さらにその後縁で群馬中小起業家同友会に入るきっかけになり、この会で経営者の現況をさせていただき現在に至っている。

早川電気(シャープ)の敏腕営業マンとして培った話術とセンスは大変惹かれるものがあった。版画という自らの興味を仕事に結びつける新しい領域の開拓も氏ならであろう。お酒の席もよくご一緒させていただいた。大変楽しお酒だった。後進に事業を譲ってから母校の立教大学の大学院に通われ知的な興味をいつまでも失わない方でもあった。いつも元気であったからぽかんと大きな穴が空いたような空虚感が残る。お通夜で最後の姿を拝見、なんとも信じがたい事実である。 合掌

献杯

2020年05月19日 | 訃報
40年近く通った居酒屋の主人が3月末ひっそり亡くなる。沙汰もないので人づてに聞く。寂しいものである。
体調を崩して自宅で療養中であったことは知っていたが不自由な体を見せたくもないだろうし、慰めも通じないだろうと思いついそのうちにと思っていた。
ましてこの新型ウイルス騒ぎだ。



多くの常連客と馴染みになり若い頃はそれから二軒、三軒と繰り出したこともあった。冬はおでん、夏は焼き鳥、映画「深夜食堂」をみていると当時のカウンターを思い出してしまう。
店のあとは今も空き店のまま。最近散歩で広瀬川に出るのに前をよく通る。大きな白いちょうちんを思い出す。

焙煎館マスター、村井祥喜さん逝く

2018年03月02日 | 訃報

今朝、コーヒー専門店焙煎館の村井祥喜さんが亡くなる。長い闘病生活でもいつも笑顔を絶やさず素敵な大人を演じておられた。
初めてお目にかかってどのくらいたったであろうか。少なくとも40年ほど前のことだ。当時は馬場川への坂道に「ラタンハウス村井」の店をを開いていた。
スコッチハウスアップルのカウンターでよく隣りあわせになり色々お話をさせていただいた。共通の知人も多く、若い一時期の思い出の中に村井さんの姿が思い出される。
立川町の通りに今の店を持たれてからもたびたびお邪魔した。段々と元気でなくなってきていたので心配していた矢先のこと、明るく賑やかな方だっただけに寂しい。
家具の商いの仕事は長男の泰弘さんが「The Nordisk Cirkus」という店を開いて頑張っている。良質な家具を大切に扱う姿勢からファンも多い。家具への思いが受け継がれていく。


男子百勝

2017年03月12日 | 訃報

手元にあるこの本はこの度逝去された故「日向規夫」さんより頂いたものだ。
高校に入学と同時に「美術部」を部活に選び、まだ旧中島飛行機の木造工場を使用していた部室で初めてお目にかかった。
2年上級である。日本画家の「日向徹夫」を親に持つということから画風は日本画的な傾向を持ちながら明るい油彩画であったと思う。
卒業される際に「小見辰男」先生をご紹介いただき絵画の勉強を続ける道を作ってくださった。仕事が忙しくなって以降絵筆を持つことはなくなってしまったが、また描いてみたいと思う。

卒業後も悪友とともによく日吉町のアパートにお邪魔した。酒を覚えたのもあのアパートであった。随分と社会勉強もさせていただいた。
「男子百勝」という本は25歳ころ、フラフラ生き方が定まらない私を見かねて与えてくださったものだ。
もっとも日向規夫さん自身色々と悩みが多かった頃でもある。しかし一本気な性格をを貫き通されたと思う。

幾つかの仕事を経てゼネコンの現場監督の地位を得て順調に過ごされ退職後もご健在だとばかり思っていた。
ご自宅設計の依頼を受けたり、偶然仕事上で設計監理者と現場監督として出会い、仕事をご一緒することが出来た。真面目な性格そのままの仕事ぶりであった。
暖かくなったらご自宅を訪ねてみようと思っていた矢先の訃報である。

実に50年に渡り、ほぼ同じ時代を生きてきた。そして多くのことを教えていただき、喜怒哀楽もともにさせていただいた先輩を失うというのは悲しさというより心細さを感じる。寂しいものだ。「男子百勝」を読み返してみよう。


井野徹さん、逝く

2016年09月02日 | 訃報

井野さんとは38年前、仕事で御一緒する機会があり、初めてお目にかかった。あるプロジェクトのリーダーを務めていて自分はスタッフとして参加していた。夜遅くまで続いた作業だったがリーダーシップをしっかり発揮されていたのが印象的だった。

自分が開業してからはJIAの会員としてさらに親しくお付き合いさせていただいた。
JIA群馬地域会の創生期に多くの活動を共にさせていただいたのが懐かしい。
お酒の席をご一緒させていただくことも多くあり、楽しいお酒だった。

共に出張帰りで前橋駅で前橋駅の改札口で一緒になり、井野さんを見送ったが、トレンチコートの裾を空っ風になびかせ帰って行かれた後姿が格好良く、なぜか鮮明に覚えている。

退職後健康を損ねておられることは人づてに聞いてはいたが、まだまだ旅立つには早すぎるお歳。残念だ。ご冥福をお祈りする。
合掌。

福島建築設計事務所 多賀谷正一社長、逝く

2016年08月26日 | 訃報

8月20日、前橋済生会病院で亡くなる。享年84歳。
昭和45年、当時の福島建築設計計算事務所への入所という形で実社会に足を踏み入れた。実に46年にわたる建築人生において、ひとつの指標であり。目標でもあった。
昭和47年、代表取締役に就任以来あの大きな組織を維持発展させていくということは並はずれた努力であったことが察せられる。
建築主に対するきめ細かな心使いや施工者に対する厳しい姿勢を今さなながら思い出される。

一昨年の暮れには多賀谷正一所長を招いて退職者を中心に同窓会を持つことができた。
育った人材が各方面で活躍していることを考えるとこれも一つの功績であったと思う。

長年糖尿病を患いながらも健康管理に気をつけておられたのでまさかこんなに急に亡くなるとは予想がつかなかった。
退職してからは夏と冬の挨拶は欠かさなかったが昨年暮れにご挨拶に伺ったのが最後となってしまった。今年は体調が優れないとはうかがっていたので直接の挨拶を見送ってしまったことが少々悔やまれる。
最期は眠るように苦しいという気配なく息を引き取られたとのこと。

岩崎さんも、五十嵐さんもすでに無く、同僚の何人かもすでに旅立ってしまった。さびしい限りだ。
ご冥福を祈る。

訃報 青木榮さん、引き継がれるもの

2016年01月12日 | 訃報
青木榮さんの訃報あり。(2016年1月9日ご逝去。享年95歳)
日本建築家協会の先輩会員であり、建築家青木淳さんの叔父に当たる。
親しくさせていただいたのは2006年、群馬地域会の代表幹事を務めていた際、地域会の行事で会員作品展、講演会、学生作品コンクールを統合して建築祭を企画したときだった。

アマチュアのコンクールといっても、だからこそコンクールの格は審査員によって決まる。
青木榮さんのご自宅を訪ね、青木淳さんを審査委員長をお願いしたいので叔父の立場から取次ぎを依頼したところ、こころよく引き受けてくださった。



おかげさまでコンクールの端緒に華を添えることが出来た。なにしろ次年度から最初の審査員が「青木淳さん」でしたというと審査員も引き受けやすいというものだった。
このコンクールの審査、それに続く講演会を見守っておられた。

青木榮さんは現横浜国大の中村順平教授の弟子であり、前橋八幡宮の拝殿をその指導下で設計を行なっている。縁があって群馬県庁に就職し、退職後自身の建築設計事務所を都内に設け、公共建築等の設計監理にたずさわった。
晩年はボザール風の中国建築のスケッテを書き、最後まで建築への情熱を燃やしていたと思われる。
身近にいた叔父の建築家としての姿を甥の青木淳さんが少なからず影響を受けたことであろう。

青木榮さんはまた一方で自分自身にも間接的ではあるがご縁が有り、以前の修行先の所長の県庁職員時代の上司であり、後に上司となる岩崎明さんと建築設計事務所を主宰されていた。時に触れ所長からは県庁時代の昔話を聞かされたものだ。

コンクールの会場は旧麻屋。廃墟のような会場ではあったが青木審査委員長は的確な審査をすばやく下したのが印象的だった。さすがというほか無い。
その旧麻屋も消え、岩崎明さんも亡くなり、そして青木榮さんも亡くなった。時代がまたひとつ動いた。

スコッチハウスアップルで飲む

2015年11月26日 | 訃報
佐藤晋一さんのお通夜に参列。
華やかだった佐藤さんの静かなお通夜だった。

仕事をしまってから、かつて佐藤さんが立っていたカウンターで少しグレンリベットを飲む。
亡くなったことが未だ信じられない。

佐藤晋一さん、逝く。

2015年11月24日 | 訃報
訃報に驚く。先週会うお誘いをいただいたばかりだった。初めての出会い敷島公園「コーヒーショップ アップル」



カウンターにはいつも花が。



今につながる人たちとの出会い。



事務所を開いて最初の仕事をいただいた。



新しい店を作るときはあちこち一緒に見て廻った。



多くのことを教えていただいた45年。いまはただ静かに振り返りたい。
お疲れ様でした。



居酒屋のお品書きを眺めるのが好きだったという。

2015年10月06日 | 訃報
居酒屋「きさく」の飲み友達であり、ご自宅設計依頼の顧客でもあった中島敏之さんが10月3日、肺腺癌で亡くなった。享年62歳。自分より前橋一中で一学年下で当時のこともおぼろげながら思い出すことが出来る。

いつのころだったろう。居酒屋「きさく」で再会した。俳句の同人誌仲間とよく集まっていた。この店の忘年会に同席したことも。そんな縁もありご自宅の設計の仕事の依頼を受けた。
当時は前橋インターチェンジの近くのアパートにお住まいでよく打ち合わせに通った。幼かったお子さんもそれぞれ高校生、」中学生に立派に成長している。
一昨年、退職を期に未完成だったお住まいの外構工事のため訪問。すっかり落ち着いた良いお住まいになっていた。
そのときはどうして今日の日を考えることが出来たであろう。

俳句はわずか17文字の極小の文字数ながら、心象風景を良く映し出す。
まったくの門外漢ではあるがこの俳句を批評するということは語彙一つ一つの深い知識と洞察力が必要であることはわかる。
教職のかたわらライフワークとしてずっと俳句と向かい合ってきたとのこと。
ご自宅設計の際に異様に多い蔵書に驚いたものだが、まさに人生そのものであったのだと改めて思った。

今日の葬儀では以前の勤め先の学校長、俳人の水野真由美、友人の佐藤進の三人が弔辞を読み上げた。
早い旅立ちを惜しむと共に共に過ごした時間の思い出を率直に述べ、見送りの言葉とされた。
奥様の挨拶もいつもの奥様であり、それが一層喪失感の深さを共感させた。