兵庫県南部地震から17年たった。それ以降、中越、中越沖、そして昨年の東北地方太平洋沖と何やら地底が騒がしい。さらに東海、東南海等と地震の発生が取りざたされている。
JIAの活動で震災後の神戸市を訪れた。罹災した住宅の復旧についての助言を行った。
東灘区役所から自転車で住宅を回ったのだが、途中市街地から消毒のにおいと音の消えた町の光景の異常さに戸惑った。
人がいないということはこういうことなのか・・
あっけなく1階だけが圧壊しているマンション、隣に寄り掛かっているビル。自然の力の大きさを思い知らされる。
中越、中越沖では群馬県内にも被害が出るほど身近な地震だった。やはりJIAの支援活動に参加した。柏崎にも向かった。
その年の水害に引き続きの災難で二度被災された住人の家に伺う。ボランティアの人たちが立ち入っても安全かどうかを調べる仕事もした。
PTSD状態のかたともお話をした。
そして今回。
あまりにも悲惨だった。やはりJIAの活動で東松島市に赴く。
自衛隊の基地がすぐ目の前の市役所で住宅復興のための相談業務ということだったがまだ現地はそれどころではなく、行方不明者の捜索が続く中、市の職員の方はそとに出掛け全国から集まった自治体職員の方たちが市役所の業務を行い、結局自分たちも市役所の職員と同じような窓口業務となった。
応対した市民にうっかりした事は問えない。帰ってくる言葉は想像に絶するものだったにもかかわらず淡々とされていて掛ける言葉を失った。
TVや雑誌で状況は伝えられてはいたが、神戸の時以来感じていることはやはり現地に行かなければ、体感しなければ真実は伝わってこないということだ。
地震後「想定外」という言葉が飛び交った。
自分たちの仕事の判断基準として建築基準法や建築学会基準といった「基準値」といったものがある。
この多くは過去の災害事例を分析して得られた値を採用しているのだが地震でいえば未だに大震災の度にハードルが上がっているのだ。
TVの宣伝で住宅メーカーが小賢しくうたっている基準はせいぜいこの程度のものだ。
倒壊しかかっても生存空間を何とか確保することが構造設計では大変重要なことだと思うが、安易に「基準値」を超えれば責を果たしたと思っている人たちが多すぎる。
本来設計者一人一人が充分研究し、安全を確保することが難しいので国がそこそこの妥協点で決めたのがほとんだ。
地震の重力の加速度など個別の建物に予測不可能だ。
だから「大体大丈夫だと思う」という基準は越えただけでは責を果たしたとはいえないと思う。
その意味で今回の日本の中枢にいる産学官共同の人達の不祥事である原発事故は痛恨の極みだ。
我々はことが起きてから初めてことの危うさを初めて知らされた。
子供だって理解できることばかりだ。
危険な原子炉の上に学校のプールの何倍にも相当する水槽を設けてあったなど正気の沙汰ではない。
繰り返し言われるのは「基準値以下」という言葉だ。
目に見えない、経験もない放射能についてまでしたり顔で語られている。
そもそも「基準値」そのものがあてにならないことを思い知らされたのにまだ言うかだ。
基準値の正当性など「想定」ではなく「結果」でしか評価されないであろう。
JIAの活動で震災後の神戸市を訪れた。罹災した住宅の復旧についての助言を行った。
東灘区役所から自転車で住宅を回ったのだが、途中市街地から消毒のにおいと音の消えた町の光景の異常さに戸惑った。
人がいないということはこういうことなのか・・
あっけなく1階だけが圧壊しているマンション、隣に寄り掛かっているビル。自然の力の大きさを思い知らされる。
中越、中越沖では群馬県内にも被害が出るほど身近な地震だった。やはりJIAの支援活動に参加した。柏崎にも向かった。
その年の水害に引き続きの災難で二度被災された住人の家に伺う。ボランティアの人たちが立ち入っても安全かどうかを調べる仕事もした。
PTSD状態のかたともお話をした。
そして今回。
あまりにも悲惨だった。やはりJIAの活動で東松島市に赴く。
自衛隊の基地がすぐ目の前の市役所で住宅復興のための相談業務ということだったがまだ現地はそれどころではなく、行方不明者の捜索が続く中、市の職員の方はそとに出掛け全国から集まった自治体職員の方たちが市役所の業務を行い、結局自分たちも市役所の職員と同じような窓口業務となった。
応対した市民にうっかりした事は問えない。帰ってくる言葉は想像に絶するものだったにもかかわらず淡々とされていて掛ける言葉を失った。
TVや雑誌で状況は伝えられてはいたが、神戸の時以来感じていることはやはり現地に行かなければ、体感しなければ真実は伝わってこないということだ。
地震後「想定外」という言葉が飛び交った。
自分たちの仕事の判断基準として建築基準法や建築学会基準といった「基準値」といったものがある。
この多くは過去の災害事例を分析して得られた値を採用しているのだが地震でいえば未だに大震災の度にハードルが上がっているのだ。
TVの宣伝で住宅メーカーが小賢しくうたっている基準はせいぜいこの程度のものだ。
倒壊しかかっても生存空間を何とか確保することが構造設計では大変重要なことだと思うが、安易に「基準値」を超えれば責を果たしたと思っている人たちが多すぎる。
本来設計者一人一人が充分研究し、安全を確保することが難しいので国がそこそこの妥協点で決めたのがほとんだ。
地震の重力の加速度など個別の建物に予測不可能だ。
だから「大体大丈夫だと思う」という基準は越えただけでは責を果たしたとはいえないと思う。
その意味で今回の日本の中枢にいる産学官共同の人達の不祥事である原発事故は痛恨の極みだ。
我々はことが起きてから初めてことの危うさを初めて知らされた。
子供だって理解できることばかりだ。
危険な原子炉の上に学校のプールの何倍にも相当する水槽を設けてあったなど正気の沙汰ではない。
繰り返し言われるのは「基準値以下」という言葉だ。
目に見えない、経験もない放射能についてまでしたり顔で語られている。
そもそも「基準値」そのものがあてにならないことを思い知らされたのにまだ言うかだ。
基準値の正当性など「想定」ではなく「結果」でしか評価されないであろう。