2022 備忘録

思いついたことを書き残す。

風化

2019年03月13日 | ひとりごと

今日も仕事やJIAのWEB会議とやらで忙殺され、気がついたらもうこの時間。仕事のことはブログに書けないし、さてどうしようというところ。
「除染と蘇生」という切迫した選択を迫られた第一線の医師の記録やおとといもTVで陸前高田の復興計画について見ていながらながら大地震について振り返るのを忘れてしまった。風化とはこんなものか。大いに反省。


今日は自分が生きてきた間に起きた最大の天災と人災のあった東北地方太平洋沖地震がおきた日。そして今も続いている。
最近になってはっきりした社会現象として被災地域のコミュニティーの崩壊がある。特に東京電力福島第一原子力発電所周辺は深刻だ。帰還しない住民の心情を察すると本当に悲しい。限界集落全てに言えることだが人が住まなくなると地域社会は崩壊する。しかし緩やかな人口流出と違い一時に大量の人口が失われたのだ。
天災を前に人間の力の限界を感じつつも暮らしていく以上減災ということを真剣に考えなくてはならないだろう。また人災に関しては経済第一主義を見直さない限り、また繰り返すことになる。分野こそ違うが最近大企業のモラル崩壊を表す様々な事件が起きている。全て根は同じであろう。

3月11日という日は反芻して記憶にとどめておきたい。当時の備忘録を再録する。



とりあえず無事です。 2011年03月11日
本日の地震では石油ストーブが自動停止、床を滑るのが見えた。
本棚の本は落ちましたが本棚は倒れず。
前橋中心部は停電もなく平常通り機能している。
ただし電話はかかりにくい。
付近の住宅の屋根の棟が一部破損。鉄骨造の上に乗っているのでこれが原因かも。
現場や設計した建物への影響が気がかりだが明日確認することにする。


グスコーブドリの伝記 2011年03月13日
グスコーブドリの伝記を思い出す。
福島原発で復旧活動に携わる人たちを思い無事であることを祈る。
原発の是非はとにかく現場の人たちの苦労は尊いものだ。
電気はだれでも簡単に、無限に使えるものと錯覚していたようだ。
計画停電が明日から始まる。
初めての経験で3時間とはいえ日常生活への影響が心配だ。
日ごろエネルギーの多様化を設計上主張してきたがまさに現実となってしまった。
便利さにどっぷり使ってきた身にはこたえる。


米田設計作品展  20年の軌跡と展望「一期一会のことづくり」中止に関するお知らせ 2011年03月17日
米田設計より米田設計作品展  20年の軌跡と展望「一期一会のことづくり」中止に関するお知らせ
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震でお亡くなりになった多数の皆さまのご冥福をお祈りするとともに、
罹災され今もなおご不自由な生活を強いられている皆様に対し心よりお見舞い申し上げます。

弊社では4月2日より標記の米田設計作品展開催を予定しておりましたが現在の社会情勢の混乱に鑑み中止させていただくこととしました。
すでに多方面にご案内いたしたところでありますが事情をお察しいただきご了承くださいますようお願い申し上げます。
状況が好転した折にはぜひ再度開催の機会を得たいと思っておりますので今後ともよろしくお願い致します。
株式会社米田設計 代表取締役 米田雅夫


決断 2011年03月19日
事務所を開設して20年経った。手探りで始めてからこの間160件にのぼる建築設計に関与してきた。
そしてこの間、新たなお付き合い、成長するスタッフ等々、輪が広がりつつあり、いまもいくつもの設計が進行している。
そこでひとつの節目として考えたのが作品展だった。
開設5年目で開いたときは「5年間よく続いた。これからだ」という新鮮な気持ちがあった。
まだまだ先の見通しがつかない中にもやっと数件の建築が出来上がったころのことだ。

今回はむしろ自分の人生を振り返る、もっと云えば今風の表現では自分へのご褒美といった気分があったと思う。
建築一筋とは云わないが好きな仕事を選ぶことができ、人生の大半を設計という仕事にかかわることができたことは何よりのことだった。
自分が現役で仕事ができる時間は限られてきた。最後の仕上げのときだ。これを機にいっそう仕事に打ち込まなければならない。
そしてこの事業が永続することを願い、次世代にすこしづつ委譲していかなくてはならないこともある。
そのためにも作品を通して事務所の過去と未来を表現するつもりだった。

ところがこの大震災、および原発の異常事態である。
原発について云えば非常に忸怩たる思いがある。
身近な電磁波でさえ危険を指摘しておきながら巨大な原発について危険性を感じながら何も行動を起こさなかった。
勿論個人の力など国家権力の前では無力ではある。しかし何か手立ては無かったのか。電力なしでは生活できないという現実を無気力に受け入れていなかったか。
多くの住民と現場の作業員が非常な危険にさらされている。200km離れた前橋も放射性物質降下が始まっている。この責任を政府や東電にだけ転嫁してよいものか。

自分は20年の節目を無事迎えることができた。いっぽう様々な節目を迎えることもかなわず多くの方が無念の最後を遂げたのである。
兵庫県南部地震など震災復興支援に現地に赴いた。
そのときの悲惨な光景がよみがえる。このような時期に重なり自分へのお祝い事はふさわしくないと判断し作品展の中止を決心した。
この作品展のために半年以上準備を重ねてきた。このことは事務所の進路を考える上で大変意義のあることだった。
広報としての機会は失ったが内部を固めるには若干でも役に立ったということにしておこう。
すでに案内を発信した後のことで中止の連絡が行き届かないかもしれない。
不手際をお詫びしたい。


省電力住宅 2011年03月21日 |
今回の震災により発生した電力不足のための計画停電はいざ始まってみたらとんでもなく不便なことが分かった。想像力の欠如である。
FAXが使い物にならない。相手先の停電時間が一致しないと受けてもらえないのだ。
のんびり仕事をしていても時間には制限がある。結局スキャンしてPDFで電子メールで送る。
出先で信号機が作動しない道をどきどきしながら走る。とどめは夜間の停電。
オール電化住宅が大人気である。便利さを認めつつもいつも建築主には災害時に単一エネルギーに頼るのは危険といい続けてきた。
通信系等は電気に頼らざるを得ないがそれ以外は電気以外でも大丈夫。搬送が不便といわれるLPGはボンベさえ確保できれば炊事は可能だ。
薪ストーブはもっと強力。

今日久しぶりにロードバイクで寄ったカフェ・アウルでは午前中停電でランチのご飯を飯盒炊爨したとの事。
勿論薪集めから薪割り着火までほとんど人力に頼る不便さ。
しかし便利さを追求する中で忘れてしまったものがあるようだ。
IHクッキングヒーター調理器を希望する理由がほとんど掃除が楽そうだからである。
この調理器であればおいしい料理ができるのでという理由を聞いた事が無い。
価値観は様々である。がもう一度不便さの中にあるものを調理器を含め考え直す時期に来ているのでは。
福島原発は間違いなく廃止だ。今年の夏のエアコン需要のための電力不足のほうが今より深刻になるだろう。


0.112μSv/h 2011年03月21日
群馬の葉物野菜が放射能汚染で出荷停止になる。
群馬といっても東毛のことだと思い込もうとしている自分がある。
太田市まで自動車で1時間。ロードバイクでも3時間足らず。
このくらいの距離の差がどんな意味を持つのか判らないが。
東毛には多くの顧客や知人がいるというのになんということだ。

衛生環境研究所(前橋市上沖町)において、空気中の放射線量の測定をしている。
今この時間の放射線量は0.112μSv/h。
一時減少傾向だったが今日の雨で空気中の塵が地表に降りてきたのかもしれない。
これからはこんな数字に一喜一憂する日々が続くのか。
しかしめげているわけには行かない。
連休まで計画停電に合わせて就業時間を変形労働制に切り替えるつもりだ。
所員から反発が出ることも予想されるが今はできることをできるだけするしかないのだ。


災害派遣 2011年04月20日
午前3時、前橋を出発し、名取市へ。午前7時30分に到着する。
道中、桜の花は満開だ。
JIAの仲間と別れ東松島市へ。我々の任務は住宅相談だ。
現地を一巡する。TVで見慣れた惨状が展開する。
田んぼに取り残され車や船舶。造船所では大きな外航船が陸地に乗り上げている。
午前10時、作業を開始する。
今日は災害支援金の申し込みの初日。申請の仕方の説明に終始する。
市役所職員は外回りに忙殺され外部からの応援で業務が進む。
福岡県、熊本県、北海道といった各地の自治体職員が応対している。
JIA東北支部の佐々木さんがてきぱきと相談に応じる。
本来業務以外も親切に対応されていたのが印象的だ。
市民の方は一見極めて冷静だ。
深刻な事態、身内の死亡、家屋の流失の様子を淡々と話されるのがかえって悲しい。
津波の跡地ではまだまだ不明者の捜索が続く。
異常な日常。
これから混乱の収束までの道のりは遠い。


入学式 2011年04月21日
宮城県では今日、4月21日は小学校の入学式。
東松島市役所にも入学式帰りの親子連れ、の姿も。
被災者であふれる1階ロビーでは好対照の印象だ。
晴れの日がこのような状況下になろうとは誰が想像したであろうか。
この町の人たちは今回の津波をきわめて冷静に受け止めているように見える。
震災支援金の受付を待つ人は整理券を渡され二時間近く待たされているのに静かに待っておられる。
群馬でもしものときははたしてどうなるのだろうか。
現地での活動も二日目、慣れてきたとはいえ重たい現実のなかで困惑する事だらけだ


被災地から学ぶこと 2011年04月23日
今夜11時35分、前橋帰着。
三日間の災害派遣が終了する。
今回は東松島市での窓口業務に終始する。
この間、多くの市民と接する。
地震による被害は思いのほか少なかったと思われるが、一方津波の被害ははじめてみる事もあるがまことに甚大である。
今回も想定外という言葉がマスコミで多く使われた。
その意味では木造住宅の耐震性能は想定内のものであったといえる。
但し、想定を上回ったら倒壊等の損害を出していたということで人命にもかかわる問題だ。

津波について考えるとまったく人間の知恵の及ばないものである。
津波の高さを過去の事例に基づいて判断することはほぼ無意味だ。
技術の進歩で自然をねじ伏せることができるように勝手に判断していたに過ぎない。
原発にしても100_%本当に安全であると確信していたのだろうか。
想定した以上の津波の高さであったと説明しているが想定外のときはどうなるのか想像力の欠如以外の何者でもないのではないか。
建築の設計においても経験値に基づく判断で構造設計がなされてきた。
やはり想定以上の力が加わったとき何が起こるか建築主に対して説明責任がありそうだ。
環境性能にしての機械設備に頼りすぎているようだ。
もともと建築形態は気候風土によって形作られてきたこと思い起こすことが必要といえる。






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