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レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」

2008年02月29日 08時53分08秒 | 読書
レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」 村上春樹訳     早川書房



 世の中にはハヤカワ文庫を読む人間と読まない人間がいる。読む人間の中には往々にしてマニアと呼ばれる人種がいる。さらにそのマニアは2つに分かれる。一つはハインラインやレム、P.K.ディックなどの名前に反応するSFマニア。もう一方のマニアは、リュウ・アーチャーやサム・スペード、あるいはコンチネンタル・オプなどの名前にピクピクするハードボイルド・マニア(あ、あと本格ものマニアもいるか)。このハードボイルド・マニアは蛇口に口を近づけ直に水道水を飲み、ハムを囓りながら禁欲的にハヤカワ文庫を読み続ける。口を開けば、なにか皮肉っぽいこと言えないかと頭脳をフル回転させ、自ら課す禁欲とモテないこととを同一視するのだ。
 そんな人間にとっての聖典は聖書や仏典ではなく、もちろんコーランやナグ・ハマディ写本でもない。
 レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」、これが彼らの聖典だ。
 かつて、ぼくも読んだ。だが、マニアなんかじゃない。通り一遍の読者に過ぎない。
 それでもこの小説はミステリである以上に何か心にひっかかるアメリカ文学だった。本筋とは別の細部の描写に面白い部分が多く、それでいてそうした枝葉が決してストーリーテリングの邪魔にならないどころか、小説内の世界を実に見事に構築する材料となっていた。辻邦生がかつて、ある世界を構築するためには、小説の量も大事なのだ、と言っていた。「長いお別れ」が1950年代のロス・アンジェルスを構築するには、この量が必要だったのだ。
 17歳の頃、ぼくは清水俊二訳を読み、それからペイパーバックで読んだ。当時のぼくにそこに描かれている男女の機微がよくわかったわけではなかった。今でも分からない。リンダはなぜマーロウと「結婚」したいのか。でも、わからなくていい気もする。チャンドラーの描写はなぜかそんな説得力があるのだ。リンダとマーロウのシーンはとても美しい。別れのシーンに会話文がなく、すべて地の文で表現しているのがいい。

 「さよならを言った。タクシーが去っていくのを私は見まもっていた。階段を上がって家に戻り、ベッドルームに行ってシーツをそっくりはがし、セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。みぞおちに鉛のかたまりのようなものがあった。
 フランス人はこんな場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼにはまる。
 さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(村上春樹訳)

 村上春樹によって新訳された「ロング・グッドバイ」を読んで、ぼくは、かつて少しだけ死んでいった人を思い起こし、感傷的な気分に浸った。
 新訳と旧訳の違い? 新訳の具合はどうかって?
 そんなことは感傷的な人間の考えることじゃあない。感傷的な人間は、そんなことを考えるより、自分の分のほかにもう1杯ギムレットを作って、そのグラスの彼方に思いを馳せなくてはならないんだ。
コメント
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