新国立劇場。ちょっと久しぶり。
まあまあ、ちょっと見ないうちに大きくなっちゃって。おばさんに抱っこさせて、ね。などと親類のうざったいおばさん状態のぼくと新国立劇場。もちろん係の人に叱られるので、だっこはしません。この年であまり人に叱られたりはしたくないもんです。
さ、今日の演目はR.シュトラウスの「サロメ」。
ああ、大好きなオペラ。
このオペラはある意味で、純愛指向の人たちとそうでない人たちとの人生模様。純愛指向の人びとのラインナップは、ナラボート、ヨカナーン、サロメ。そしてそうじゃない人たちはヘロデ、ヘロディアス。
ね。なんかわかったでしょ。
サロメは「愛の神秘は死の神秘より深遠だ」と歌うが、愛の神秘にとらわれた人たちはすべて死へ旅立ってしまう。自殺するナラボート、首を切られるヨカナーン、首を切らせたけれど、結局殺されてしまうサロメ。
それに対して、現世的な欲にまみれたヘロデ&ヘロディアスはその現世にとどまり続ける。
この2つの生き方の葛藤も一つのテーマなのだ。
現在のわれわれからすれば、ナラボートもヨカナーンもサロメも、ある意味でサイコ野郎なのだ。好きな女性がほかの男に粉かけるのを見て自殺しちゃうナラボート。周りにいないでしょ? 神への愛一筋、半裸でイナゴ食べて荒野で暮らしてるヨカナーン。これもなかなか周りにいない。で、惚れちゃった男にキスしたいけど断られちゃったから、そいつの首切って持ってきて、死んだ首にキスしたいから、と頼むサロメ。いないなあ。
そんなサイコ野郎たちが最高に輝いているオペラ(シャレじゃないよ、そんなセンスのだじゃれなんて言わないよ)、それが「サロメ」なのだ。
だからその3人は輝いて、ヘロデ&ヘロディアスはヒステリックであったり、俗っぽい人間であったりするところが歌手の腕の見せ所。
演奏の感想。まず、「七つのヴェールの踊り」はもう、なんとかした方がいいんじゃないか、お互いに。踊りの訓練を積んでない(子どもの頃にバレーやってました、なんてのは踊りの訓練じゃない)人が何千人かの観客の前で踊ること自体、見る方やる方、お互いのためにならないと思う。何千人かの人の前でやるってことはね、歌右衛門とかボリショイのプリマとか(すまん。ここでちゃんと名前が出ればいいんだけれど、ぼくはバレエをまったく知らないのだ)、そのクラスの踊りなのだ。だから、もうやめないか、こんなこと。
しかも見せる身体を作っているわけでもないオペラ歌手に半裸を要求することも、お互いのプラスにはならない気がするのだ。
彼女が一生懸命やっているからこそ、ぼくはなんだか悲しくなってしまうのだ。
これはもうなんとか、みんなで考えた方がいいです、などと学級会の発言みたいな言葉が浮かんでしまったのだ。
やる方も辛いかもしれないが、見る方だって、いろんな気持ちが縦横に入り交じって、結構辛いのだ。オペラ見に行って、昔、小学生の頃、いじめられてた女の子のことを思い出して、なんだかとてもネガティヴな気持ちになるのはぼくだって不本意だ。
しかも今回は歌がちょっと不調で声が出ていないサロメだったから、必要以上に同情してしまう。ああ、そんな、下半身は脱がなくてもいいよ、最後の歌をがんばってくれれば、グッジョブ!と声をかけるからさあ、などと考えてしまうのだ。
辛い。
七つのヴェールの踊りは、こういう意図で書かれたわけではないと思う。しかし、音楽的にはあまりにもつまらない。必然的に舞台で踊る歌手に神経が集中する。
R.シュトラウスはなんと意地悪なのだろう。
ほかの歌手のみなさんもオーケストラも好演だったと思う。
不調のサロメだったけれど、最後はやはり聞かせてくれた。よかった。
アリアのあとのサロメの死は奴隷の剣による。ナラボートはんの弔い合戦や、と隙をうかがっていた小心の奴隷が最後、たま取ったるでえとサロメに剣を突き刺す。兵士の盾で殺されるベームやドホナーニ指揮のときの演出と違って、面白いと思う。そこに小さなドラマが一つ付け加えられたのだから。
まあまあ、ちょっと見ないうちに大きくなっちゃって。おばさんに抱っこさせて、ね。などと親類のうざったいおばさん状態のぼくと新国立劇場。もちろん係の人に叱られるので、だっこはしません。この年であまり人に叱られたりはしたくないもんです。
さ、今日の演目はR.シュトラウスの「サロメ」。
ああ、大好きなオペラ。
このオペラはある意味で、純愛指向の人たちとそうでない人たちとの人生模様。純愛指向の人びとのラインナップは、ナラボート、ヨカナーン、サロメ。そしてそうじゃない人たちはヘロデ、ヘロディアス。
ね。なんかわかったでしょ。
サロメは「愛の神秘は死の神秘より深遠だ」と歌うが、愛の神秘にとらわれた人たちはすべて死へ旅立ってしまう。自殺するナラボート、首を切られるヨカナーン、首を切らせたけれど、結局殺されてしまうサロメ。
それに対して、現世的な欲にまみれたヘロデ&ヘロディアスはその現世にとどまり続ける。
この2つの生き方の葛藤も一つのテーマなのだ。
現在のわれわれからすれば、ナラボートもヨカナーンもサロメも、ある意味でサイコ野郎なのだ。好きな女性がほかの男に粉かけるのを見て自殺しちゃうナラボート。周りにいないでしょ? 神への愛一筋、半裸でイナゴ食べて荒野で暮らしてるヨカナーン。これもなかなか周りにいない。で、惚れちゃった男にキスしたいけど断られちゃったから、そいつの首切って持ってきて、死んだ首にキスしたいから、と頼むサロメ。いないなあ。
そんなサイコ野郎たちが最高に輝いているオペラ(シャレじゃないよ、そんなセンスのだじゃれなんて言わないよ)、それが「サロメ」なのだ。
だからその3人は輝いて、ヘロデ&ヘロディアスはヒステリックであったり、俗っぽい人間であったりするところが歌手の腕の見せ所。
演奏の感想。まず、「七つのヴェールの踊り」はもう、なんとかした方がいいんじゃないか、お互いに。踊りの訓練を積んでない(子どもの頃にバレーやってました、なんてのは踊りの訓練じゃない)人が何千人かの観客の前で踊ること自体、見る方やる方、お互いのためにならないと思う。何千人かの人の前でやるってことはね、歌右衛門とかボリショイのプリマとか(すまん。ここでちゃんと名前が出ればいいんだけれど、ぼくはバレエをまったく知らないのだ)、そのクラスの踊りなのだ。だから、もうやめないか、こんなこと。
しかも見せる身体を作っているわけでもないオペラ歌手に半裸を要求することも、お互いのプラスにはならない気がするのだ。
彼女が一生懸命やっているからこそ、ぼくはなんだか悲しくなってしまうのだ。
これはもうなんとか、みんなで考えた方がいいです、などと学級会の発言みたいな言葉が浮かんでしまったのだ。
やる方も辛いかもしれないが、見る方だって、いろんな気持ちが縦横に入り交じって、結構辛いのだ。オペラ見に行って、昔、小学生の頃、いじめられてた女の子のことを思い出して、なんだかとてもネガティヴな気持ちになるのはぼくだって不本意だ。
しかも今回は歌がちょっと不調で声が出ていないサロメだったから、必要以上に同情してしまう。ああ、そんな、下半身は脱がなくてもいいよ、最後の歌をがんばってくれれば、グッジョブ!と声をかけるからさあ、などと考えてしまうのだ。
辛い。
七つのヴェールの踊りは、こういう意図で書かれたわけではないと思う。しかし、音楽的にはあまりにもつまらない。必然的に舞台で踊る歌手に神経が集中する。
R.シュトラウスはなんと意地悪なのだろう。
ほかの歌手のみなさんもオーケストラも好演だったと思う。
不調のサロメだったけれど、最後はやはり聞かせてくれた。よかった。
アリアのあとのサロメの死は奴隷の剣による。ナラボートはんの弔い合戦や、と隙をうかがっていた小心の奴隷が最後、たま取ったるでえとサロメに剣を突き刺す。兵士の盾で殺されるベームやドホナーニ指揮のときの演出と違って、面白いと思う。そこに小さなドラマが一つ付け加えられたのだから。
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