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諏訪への旅2

2008年02月20日 12時04分12秒 | 観光


 建御雷神が「ここはわしらのシマじゃけ」とすごんでみせると、人のいい大国主命は、ああそうですか、とあっさり認めてしまう。「古事記」での国譲りの場面だ。
 でも、まあ、子どもたちにも聞いてみてくださいとお願いすると、長男の八重言代主神は納得するが、次男の建御名方神は納得しない。「その話はわしを倒してからじゃき」と立ち向かうが、建御名方神は負けて諏訪まで逃げてくる。で、ここから一生出ないから許して、と命乞う。これで葦原中国は晴れて天津神のものとなったのでありました。
 しかし、この話はなんだかちょっと変。日本書紀では建御雷神はむしろ従で経津主神が主となって地上に降りる。しかも、そこには建御名方神は登場しない。
 だいたい古事記においてでさえ、建御名方神の登場は唐突すぎるのだ。大国主命の御子として名前すら一度も登場することなく、いきなり「次男がおります」発言で物議を醸すのである。たしかに、ぼくの知り合いに、父親の葬式のときにそのような状況に追い込まれた人がいて、相続など大変だったそうであるが、ここではあまり関係のない話だ。
 経津主神と建御雷神については、これはそれぞれ物部氏、中臣氏の祖神であり、物部氏の凋落と中臣氏の繁栄がここに現れているのだろう。忌部氏のルサンチマンについてはまたいずれ。
 一方、建御名方神については、唐突だし、それにこの神は武神として多くの武将から厚い尊崇を受けているのだ。負けてここから出ないから殺さないでえ、と言ってる神が、だ。
 これについては鈴鹿千代乃「建御名方神の王国」が詳しい。


「しかし、ここに、大国主神の系譜にない建御名方神を大国主神の御子神として登場させて服従を誓わせる一文を入れたのは、もともとは大国主神の譲った世界に、建御名方神の王国である「諏訪」が入っていなかったのではないかという考えが浮上するのである。
 諏訪の王権はもともとは大国主神の版図に入らない独立王権だった。だからこそ諏訪の国譲りを説かなければ国譲りは完遂しない。それ程、諏訪の王権が高天原王権にとって無視できない強大なものだったと考えられるのである」


 出雲にも大和にも属さない、独立国として諏訪は存在していた。そこで建御名方神の話を挿入することによって、諏訪も大和の国の傘下に組み込んだというポーズをつけた。
 この説話はだが、逆に諏訪の治外法権を認めてしまっているのだ。
 では、まったく建御名方神と大国主命が関係なかったと言うとそうでもない。
 この二人を結びつけたもの、それが翡翠なのであった。

 写真は諏訪神社下社春宮近くの万治の石仏

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