坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『イラク「人質」事件と自己責任論』を読んで

2007年05月22日 | 坊主の家計簿
 5月22日

 雑費  缶コーヒー         120円
     エスカップ12       628円
 外食  チキンカツ蕎麦       347円
 食類  もずく           106円
     ホルモン          199円
     もやし            45円
     ピーマン           48円
     焼そば麺           18円

 合計               1511円
 5月累計            84827円

 教団問題の学習会だったのだが、急遽枕経→通夜。只今売り出し中の住職にはもっと売れてもらわんとアカンし。
 っちゅう事で、ポッカリ時間が空く。まあ、仕事は忙しかったのだが、予定が急になくなったわけやし。

 っちゅう事で、先日注文してた『イラク「人質」事件と自己責任論』が届いていたのでついでに一気に全部読む。
 まあ、怒り→呆れ→哀しみか。
 色んな人達が書いているので一概に云えない。が、基本的な多くの意見は「ケチをつけるな」ではないだろうか?

 それは『海外のメディアが伝えたバッシング くまがい宏』という記事の中で
【「人道主義的な志こそが彼らが追求したものであり、人質から解放され、帰国した後は、英雄として待遇されてしかるべきである」】(同書141ページより)
 と、中国の『南方都市報』という新聞の中の言葉を引用している事が象徴的だろう。

 酷いというか、ここまで行くと「カルト臭い」のだが
【権力は三人が真っ当に「世界を愛していた」ことが恐かったのだと思います。そしてそれが広がっていくことが・・・・・・。】(生田卍氏 同書38ページより)

 つまり同書に収容されている多くの論者はイラク人質事件での3人、つまり高遠氏、郡山氏、今井氏の三人の行動が『素晴らしかった』と云う事が前提になっている。
 この辺が『道楽』としか、あるいは単なる『仕事』としてしか考えていない私とは全く意見を異にする。その辺の意見の相違がまずある。
 
 で、例の『自己責任論』だが、これも3種類あると読んでいるうちにハッキリした。
 1 政府側からの自己責任論
 2 3人を支援する側からの自己責任論
 3 私の自己責任論
 である。

 政府の自己責任論とは政府関係者が出した自己責任論である。
 
 支援する側の自己責任論とは、
 
【この頃、私は親しいメディア関係者数人から首相側近が、防衛庁幹部が、外務省幹部が、そして警察幹部が、記者に向かって何を語ってきたのか、を全てうち明けられた。「自作自演」「自己責任」そして家族への誹謗中傷、全ては、政権中枢サイドが主導したものだったという真相がはっきり見えてきた。】(伊藤和子氏 同書69ページより)
 
【マスメディアの一方的な自己責任バッシングに洗脳され煽られていく世論】(有馬理恵 同書61ページより)
 
 等が代表的であろう。

 私の自己責任論とは2つある。
 一つは、戦争している地域に、『攻め込んでいる側』である日本人が行くのなら勝手に行け。
 っちゅうもんである。別に『国』が頼んだわけではない。『国』が頼んだのなら話は別だ。政治に関する責任がある。自衛隊員が捕まったのと、好き勝手に個人的に行った人間とでは全然違う。
 ついでに書くが
【国家が国民の命を守り、救命に尽くすのは義務だ、にもかかわらず、救出にかかった費用の一部を三人に弁済までさせた】( 東京新聞記者 佐藤直子氏 同書22ページより)
 とあるが、私の記憶に間違いがなければこれは帰りの交通費だったはずだ。それ以外に請求出来る法はないはずだ。20億とかの諸経費の数%でも請求出来る権利は国は持ち得ないはずだ。ただ、この交通費は確か正規の航空料金だったはずであり、結構高かった。今日は本を読むことで一杯一杯でネット検索できないのだが、確か一人当たり数十万円だったはず。まあ、正規の飛行機代だし、高いわな。陸上の交通費とかホテル代とかとの合計だったっけ?まあ、これは別に3人だけでなく、他の人達、つまり『人質事件』以外でも確か当てはまるはずだった。で、確か3人の後に拉致された気合の入った二人は「さすが筋金入りの運動がかったヤツは違うで」っちゅう個人的感じを受けたのだが、確か政府調達を断って自分達で帰って来たはずだ。
 まあ、政府としては別料金も取りたかったのかも知れないが、そんな事は出来るわけもなく(やってたら後で裁判になる)、正当な権利を主張しただけの話だな。

 で、もう一つの『自己責任論』とは、っちゅうか、これがあるからわざわざ本まで買ってしまったのだが、『何故、あの3人を特別扱いしなければならないのか?』っちゅう、非常に素朴な事である。
 戦場だろうが、何処だろうが、好き勝手に行きやがれ。ただ、私はその行動を『貴い』とは全く思えない。『道楽』あるいは『仕事』としか思えない。
 それは私には関係ない。『関係ない』とは変な言い方だな。関係ない事などないのだが、ただ、私にとって『貴い』と思えるような事ではない。よって勝手にすればいいだけの話であって、その事を恩着せがましく『貴い行動』等と規定されるのは『大きなお世話』以外の何ものでもない。何故私が3人の行動を英雄視しなければならない義務があるのだろうか?
 これは別にあの3人だけの話ではない。例えば何処かの宗教団体が私に恩着せがましく『貴い事』を押し付けられたら私は断固反対する。大きなお世話じゃボケ!っちゅうやつである。お前らの正義を押し付けられたらたまったものではない。
 当然、国家でも同じである。天皇が『貴い』等と押し付けられる筋合いはない。ただ、こっちは政治の話であって、政治は有権者である私たち一個人の責任があるので少しだけ変わるが、それでも天皇だろうが、『愛国心』だろうが、『日の丸・君が代』だろうが、真っ平御免である。
 
 しかも3人を支援する人達の多くは、確かそれだけの本があった気がするのだが思い出せないのだが、『自己責任論に加担した人達は政府サイドが主導した論調に洗脳されている』等という論が多くある。
 「ああ、ここまで来たらアカンな。。。」なんだが、要するに一個人を見ないのだ。「大衆は愚民で無知で政府やマスコミに洗脳されている」とは、ほぼカルト宗教の理屈だろう。悪いが、『自作自演の物語』や、『自己責任』なんぞ誰だって考えつくぜ。その証明になるかならんかは知らんが、私は考えつく。妄想好きやし、陰謀説が大好きやし(笑)
 それら『一個人』を見ないようなありかた、つまり今日読んだ本の中の多くの論者は「自己責任論に加担した人達は愚民で無知で政府やマスコミに洗脳されている」ぐらいにしか思っていないのだろう。まあ、少し言い過ぎかも知れんが。

 その背景にある、貴いもの(者)に対する憧れ、貴い行動に対する神聖化が一番恐い。神聖化がなければ今日読んだ本の論調は出て来なかったと感じる。
 それは、実は同書を書かれた人達が、え~っと、どこやったっけ?出て来ない、確か「時代の空気」とか書かれていたと思うのだが、その『時代の空気』そのものである。
 ん?昨日検索したサイトだったかな?
 あった

【自衛隊撤退を求めた三人の家族や、当時は安否も定かでない本人たちに、世論のバッシングを浴びせることになる。まるで三人が、罪を犯した者のように。
 それは、現代の日本に「空気」を象徴する社会現象になった。】(佐藤直子 同書12ページより)

 私はその「空気」を、『美しい国』とか『神聖化』『貴い存在』とかに関する事と観るし、それは一直線に「南京虐殺はなかった」「従軍慰安婦に軍の関与はなかった」「沖縄の集団自決に軍の関与はなかった」等に通じると考える。嫌韓流、攘夷、穢れ思想に通じると考える。
 だから「タカトーは神聖にして犯すべからず」等とイヤミも書きたくなる。悪いが、そうじゃないとあんな論は出ないと思うぞ。

 当然、私にも尊い『教え』はある。だが、『教え』は個人ではない(カリスマの否定)だし、その『教え』は『義なきを義とす』が象徴するようなもんだし。
 原始仏典なら
 
【ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。
 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。】(岩波文庫『ブッダの言葉』並ぶ応答‐小篇より)

 か。打ち込むのが面倒なので検索して出て来た部分だけしか貼付けていないが。
 ちなみにこの辺りが、要するにスッパニパータの4章5章辺りが最古層やったな。復習、復習と。

 私だって尊敬されたいし、貴く成りたい。けど、それって自分を差別してるだけやと私は感じたし、しんどいし、苦しいし。
 まあ、個人的体験なんだが。