坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

意見

2007年05月07日 | 坊主の家計簿
 5月7日

 雑費  歯医者        1010円
 外食  すき焼き豚汁飯     473円
 食類  蒸し鶏         100円
     鶏せせり        114円
     もずく         117円
     きゅーり3        99円
     長崎冷麺         99円

 合計             2012円
 5月累計          13134円

 朝起きる時は「仕事だ」と云う事で目覚まし3個で起きれるのだが、夕寝で何故目が覚めん。。。っちゅうか、学習会等の前の仮眠では起きるし、夕方から仕事がある時の仮眠でも起きれてるからエエっちゅうたらエエのだが。。。
 っちゅう事で、本日も夕寝4時間半。あ~あ、っちゅうねん。。。筆ペンプリント3枚しか出来ひんかったやんけ。まあ、明日の夕方までにやってまお。

 久しぶりの歯医者。『元理想の眼鏡っ娘』の髪の毛の色が若干黒くなっていた気がしたのだが、染め直したのかな?
 個人的な趣味では黒髪の方が好きである。私の髪の毛が元々若干赤茶けているし。
 ついでに保守過激派民族主義者として「茶髪に染めているヤツは売国奴だ!」と(笑)

 こういう『過激』な発言に意味はない。反感を生み出すだけである。主婦業の年俸1600万と同じである。
 当然、それぞれの意見は大事だが、反論する意見も当然の如く大事である。両者は基本的に意見の相違だけの話でしかない。
 誰だって『正義』の立場になりたい。『上』に立ちたい。他人を見下したい。だから『平等』なら解るが、『平等』以上の事を求められる、あるいは『女性は平和的』『男性は暴力的』等と云う偏見は偏見以前に『女性の方が男性よりも優れている』にしか聞こえない。それは優性思想であり、『男性の方が優れている』と何ら変わらない意見であり、どう考えてもおかしい。そういいたくなる抑圧された感情、反発心は解るが、それは違う。
 その事と、最初からの偏見で「聞こうとしない事」とは全然違う。
 「どうせあいつは○○だから」
 の『○○』の中に、被差別者、つまり被差別、在日、女性等を放り込む。あるいは、被差別者の立場ではその逆の立場の人を放り込む事はおかしい。

 自分とは違った様々な意見と立場の人達が居る事は『当たり前』であり、その『当たり前』の事が『当たり前』でなかったが故に差別と偏見が固定化され続けているわけであって、その事に苦しんだ人が偏見の固定化の為の再生産を自分からする必要性はない。やりたい気持ちは非常によく解るが、それはおかしい。
 主婦業の辛さを『旦那』が解らないのと同じく、主婦業従事者が『旦那』の仕事の辛さを解ろうとしない。それは両方ともおかしい。

 ん?昨日の話題に引きずられているなぁ。。。

 様々な思想、立場、民族、性別の人達が『日本国』という国家にいる。
 どの人が特別優れた人、という事はない。故に私は天皇制に反対なんだが、まあ、今日は別。
 どの人が特別に優れた人というわけでもなく、どの人が特別に劣った人というわけでもない。それぞれの人が、それぞれに光り輝いた存在であり、別に比べる必要もない。いや、『比べてしまう事』を通じて自他差別してしまう私自身を取り戻す。あ、これも今日は違う。
 
 優れた国家とは、そういう様々な国民、『日本国籍を有する者』という意味でなく、『日本に住む人達』の違いを尊重出来る国家が優れていると感じる。当然、私の意見である。それ故に、違う意見の人達とも私の意見でもって『対話』する。

 『社会運動』と云った場合には当然『大東亜共栄圏』も社会運動だったりする。「日本は天皇を中心とする神の国である」も社会運動である。決して『左』だけでなく、『右」でも社会運動である。右翼の街宣は左翼のデモと何ら変わらない。
 『平和運動』といっても『天皇の名の下の平和を押し進める運動』もある。イラクでの『平和活動』というわけの解らんものもある。
 『社会運動』『平和運動』とも別に左翼のお決まりだけではない。新右翼の鈴木邦男氏は平和主義者であるし。
 また、その実、よく解らん。今日テレビニュースでフランス大統領に関する暴動が起っていたが、あれだって『平和』を求める声なんだろう。やってる事は暴力以外のなにものでもないが。日本なら全共闘の争乱も『平和を求める行為であった』と云いたい人は云いたいんだろうし。単なる暴力行為にしか過ぎない事でも、ある人からすれば『平和運動』なんだろうし。

 宗教教団、非常に限定して『大谷派教団』としてなら、教団の第一義は、どの政治権力にも支配されずに独立した位置を持ち、念仏の教えを広めて行く事が第一義である。それ以外には何らない。
 靖国神社の問題は、靖国に祀られている英霊の中に真宗門徒が居るのなら問題である。純粋な信仰問題である。教団の問題でもある。真宗門徒は死後に『英霊』なんぞ決してなり得ない。純粋に宗教の問題である。
 この教団内には様々な差別がある。差別とは単なる偏見である。その偏見を教団内に放置している事は信仰教団としては間違って居る。決して肯定してはならない問題であり、当然の如く『教団』として問題にすべきである。
 それは決して『教団内』という、『自分達さえよければイイ』という問題でもない。差別の問題は純粋な信仰運動である。『固定化』からの脱却が空であり、念仏ではないのか?『偏見』こそ固定化の最たるものである。

 『教団』とはその信仰を持った人達の集まりである。
 真宗教団なら念仏者の集まりである。
 『社会運動』『平和運動』とは概念が非常にあやふやであって、時の思想の流行、あるいは政治的な事柄に利用されやすい言葉であり、危険極まりない。『社会の為』『平和の為』といい、戦争だってする。
 教団は仏教教団であり、当然の如く『社会運動』『平和運動』に教団を挙げて直接関わる事は危険である。それが『戦争責任問題』なんだろうし。
 大谷派教団は、フェミニズムではなく、仏教の論理として『女性に対する偏見はおかしい』と云えばイイのだし、ヒューマニズムでなく、「仏教思想としておかしい」と云えばイイ。フェミニズムや、ヒューマニズムに迎合したり、或いは『被差別者の声』という『誰から聞くかによって全然違う意見』に迎合するのでなく、仏教の教えに特化すればいい。
 差別=偏見を固定化する様なものは仏教ではない。なら、仏教教団としての立場から世間にその事を問うていけばイイ。運動していけばイイ。『社会運動』『平和運動』でなく、純粋な『信仰運動』としてやっていけばイイだけだ。

 自らの信仰運動を誇る事で差別化する事はあってはならない。そんなもんは信仰運動でもなんでもない。差別の再生産にしか過ぎない。単なる優性思想にしか過ぎない。

 と、まあ、ここを読んでいる人の中に3人いるのか?っちゅう某メルマガをさっき読んでの感想。

 ちなみに自信のある人が「救われたい」とか思うのかな。。。よう解らん。