5月1日
雑費 缶コーヒー 120円
外食 豚汁卵焼白身フライ飯 537円
合計 657円
5月累計 657円
連休ボケで当然昨夜は深夜、いや、典型的な夜型なので深夜ならほぼ毎日深夜まで起きているのだが、昨夜は朝まで起きててもうてやな。。。2時間ちょい睡眠やったな。
ので、今日もボケボケ。
御仕事終わって『亀は意外と速く泳ぐ』を観る。
「ああ、幸せ。。。」っちゅう映画。
幸せな最大の理由は「蒼井優は妖精であり、天使である。それを認めないヤツ等は非国民であり、売国奴であり、人生の何たるかを知らない不幸な奴らである」と云う事なんだが、上野樹理はやっぱしエエ役者やな。
しかし、上野樹理は天使でもないし、妖精でもない。観てるだけで「ほえ~」と出来ない。上野樹理は焼き飯ラーメンセットに餃子とキムチを付けて食べそうやし、きっと長年一緒に住んだり、友達になったりする、つまり『人間』として考えるのなら上野樹理の方がおもろいかも知れんが、残念ながら両者ともDVD上の人であり、女優なので関係ない。女優もアイドルも人間ではない。商品である。
ん?違うわ、え~。。。また新たな蒼井優ちゃんの魅力が味わえて非常に素晴らしい映画である。
同時に映画としてもエエ感じ。ホッコリ出来るし、諸々『平凡』と云う事についても考えさせられる映画でもある。
さっきのリンク(http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=5500)を読んでたら、『土本典昭』という文字が眼に入る。ちなみに『虹の女神』の中でも、「彼女はあのまま行ってたら小川紳介になってたかも知れない」みたいなセリフもあった。
小川紳介も土本典昭も非常に優れたドキュメンタリー映画監督。
で、リンク先から『映画は生きものの記録である』というページに出た。なにやら、ドキュメンタリー映画監督の土本典昭を撮影したドキュメント映画らしい。
土本典昭の映画を初めて観たのは『水俣30年』だった。ん?『水俣20年』だったかな?とにかく両方の上映、っちゅうか、他に数本映画上映していた土本典昭の上映会の手伝いを「打ち上げで酒飲ましたる」という一言で手伝わされたのだが。。。
18の兄ちゃんにとっては土本典昭の映画は衝撃的であった。それは当然『水俣病』という『事件』に関してもなんだが、今思うと、『人間』を撮影していたからかも解らん。
テーマは社会問題であっても、『社会問題』といっても結局『事件』で苦しむのは『人間』であり、その『人間』を記録していたのだなぁ~、と。
『映画は生きものの記録』というタイトルを見て感じる。
インターネット、ブログというミニコミや日記を『様々な人達の声』を別に会費を払うわけでもなく、交換日記するわけでもなく、自伝を買うわけでもなく、お気軽に読める時代になった。
ブログの基本は「今日はどこそこに行って来ました」というやつである。私みたいに家計簿をつけている人達も居るし、まあ、なんだ、「私達結婚しました」という年賀状みたいな、他人が観て「どうでもエエやんけ」というのがブログの基本だと思う。
真鍋や、中川翔子等の有名人のブログはアクセスが無茶苦茶多いらしいが、多くのブログは平凡な無名の私達のブログである。
平凡な無名の私達が、でも、書いている人は毎日書いているし、毎日数件書いている人もいる。
ほぼ『私信』に近い形のブログやミクシィ日記もあるし。だいたい、『ドグラマグラ』とか『プカプカ』とかの飲み屋の名前なんぞ日本人の中で100人知ってるのか?(笑)
そうやって、私(達)はブログというツールを手に入れ、インターネットの接続環境があれば誰だって見れるようになったし、書けるようになった。
当然、『くまえり』やったっけ?そんな野心を抱く人も居るのだろうが、いや、当然『野心』は恐らく誰にでもあるんだろうが、そんな『野心』を抱きつつも平凡に毎日暮らして、平凡に毎日生きている事を、生きている中で考える、感じた事を書きこんで、それをまた読む。
全く知らない人の日常の平凡な生活を垣間見る事が出来る。それを読んで「たいして変わらんやんけ」と、『平凡』あるいは『普通の生活』を感じる事もでき、また、そこで差別化も生じる問題もあるのだが、それも引っ括めて「たいして変わらんけんけ!」と。でも、それぞれが違う生活。
私には子どもは居てないので『子どもが居てない』と云う事については『違う』のだが、当然、それぞれの環境によって違うのだが、それぞれがそれぞれの日常を生きている事には変わりはない。
傍からみると「大した事ないけんけ!」でも、それぞれには『大した事』であり、日々の生活の中での重大な出来事。
そんな事を『対話』や、『自伝』や、『交換日記』等でなく、インターネット接続がある環境で簡単に見れるようになった、伝える事が出来るようになった事は非常に好い事だと思う。
『人がそこに生きておられる』(by中川先生)
なんだが、それぞれの人がそれぞれの生活環境の中で『伝える事』が出来る事になった事は非常に好い事だ。
曇鸞という中国の坊さんが居る。大昔の人なので当然会った事はない。
この人は私にとっては大切な仕事をしてくれた『先生』なんだが、多くの人には関係ない人でもある。
『亀は意外と速く泳ぐ』を観ながら、狐野先生が昨年秋の講義の中で不老長寿を一時期目指した曇鸞が67年の生涯を病によって終えて行った事、つまり、「念仏申す身となり、平凡な一老人としての平凡な生涯を終えて行った」と云われていた事を思い出す。
また、真宗の現生利益として
「本願を信じ念仏申す中で凡人として生き切って行く事が出来る。落ち込み、悩み、これが私であると正々堂々と生きて行ける」みたいな事を云われていた事を思い出す。
目立ちたい、輝きたい、と平凡をきらう。
でも、『映画は生きものの記録』であったりする。
被差別者との連帯等と云うが、結局『それぞれの人生』という事、その『それぞれの人生』を認めない『部分』が問題ではないのか。
「あんなヤツ等」と云い、『敵』にして、自分とも他人とも出会おうとせずに、身内で凝り固まる。セクト主義。
そうやって、日々の生活に緊張して、連休明けにも関わらず肩がこってます。昨日、温泉&マッサージ行ってんけどなぁ。。。
雑費 缶コーヒー 120円
外食 豚汁卵焼白身フライ飯 537円
合計 657円
5月累計 657円
連休ボケで当然昨夜は深夜、いや、典型的な夜型なので深夜ならほぼ毎日深夜まで起きているのだが、昨夜は朝まで起きててもうてやな。。。2時間ちょい睡眠やったな。
ので、今日もボケボケ。
御仕事終わって『亀は意外と速く泳ぐ』を観る。
「ああ、幸せ。。。」っちゅう映画。
幸せな最大の理由は「蒼井優は妖精であり、天使である。それを認めないヤツ等は非国民であり、売国奴であり、人生の何たるかを知らない不幸な奴らである」と云う事なんだが、上野樹理はやっぱしエエ役者やな。
しかし、上野樹理は天使でもないし、妖精でもない。観てるだけで「ほえ~」と出来ない。上野樹理は焼き飯ラーメンセットに餃子とキムチを付けて食べそうやし、きっと長年一緒に住んだり、友達になったりする、つまり『人間』として考えるのなら上野樹理の方がおもろいかも知れんが、残念ながら両者ともDVD上の人であり、女優なので関係ない。女優もアイドルも人間ではない。商品である。
ん?違うわ、え~。。。また新たな蒼井優ちゃんの魅力が味わえて非常に素晴らしい映画である。
同時に映画としてもエエ感じ。ホッコリ出来るし、諸々『平凡』と云う事についても考えさせられる映画でもある。
さっきのリンク(http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=5500)を読んでたら、『土本典昭』という文字が眼に入る。ちなみに『虹の女神』の中でも、「彼女はあのまま行ってたら小川紳介になってたかも知れない」みたいなセリフもあった。
小川紳介も土本典昭も非常に優れたドキュメンタリー映画監督。
で、リンク先から『映画は生きものの記録である』というページに出た。なにやら、ドキュメンタリー映画監督の土本典昭を撮影したドキュメント映画らしい。
土本典昭の映画を初めて観たのは『水俣30年』だった。ん?『水俣20年』だったかな?とにかく両方の上映、っちゅうか、他に数本映画上映していた土本典昭の上映会の手伝いを「打ち上げで酒飲ましたる」という一言で手伝わされたのだが。。。
18の兄ちゃんにとっては土本典昭の映画は衝撃的であった。それは当然『水俣病』という『事件』に関してもなんだが、今思うと、『人間』を撮影していたからかも解らん。
テーマは社会問題であっても、『社会問題』といっても結局『事件』で苦しむのは『人間』であり、その『人間』を記録していたのだなぁ~、と。
『映画は生きものの記録』というタイトルを見て感じる。
インターネット、ブログというミニコミや日記を『様々な人達の声』を別に会費を払うわけでもなく、交換日記するわけでもなく、自伝を買うわけでもなく、お気軽に読める時代になった。
ブログの基本は「今日はどこそこに行って来ました」というやつである。私みたいに家計簿をつけている人達も居るし、まあ、なんだ、「私達結婚しました」という年賀状みたいな、他人が観て「どうでもエエやんけ」というのがブログの基本だと思う。
真鍋や、中川翔子等の有名人のブログはアクセスが無茶苦茶多いらしいが、多くのブログは平凡な無名の私達のブログである。
平凡な無名の私達が、でも、書いている人は毎日書いているし、毎日数件書いている人もいる。
ほぼ『私信』に近い形のブログやミクシィ日記もあるし。だいたい、『ドグラマグラ』とか『プカプカ』とかの飲み屋の名前なんぞ日本人の中で100人知ってるのか?(笑)
そうやって、私(達)はブログというツールを手に入れ、インターネットの接続環境があれば誰だって見れるようになったし、書けるようになった。
当然、『くまえり』やったっけ?そんな野心を抱く人も居るのだろうが、いや、当然『野心』は恐らく誰にでもあるんだろうが、そんな『野心』を抱きつつも平凡に毎日暮らして、平凡に毎日生きている事を、生きている中で考える、感じた事を書きこんで、それをまた読む。
全く知らない人の日常の平凡な生活を垣間見る事が出来る。それを読んで「たいして変わらんやんけ」と、『平凡』あるいは『普通の生活』を感じる事もでき、また、そこで差別化も生じる問題もあるのだが、それも引っ括めて「たいして変わらんけんけ!」と。でも、それぞれが違う生活。
私には子どもは居てないので『子どもが居てない』と云う事については『違う』のだが、当然、それぞれの環境によって違うのだが、それぞれがそれぞれの日常を生きている事には変わりはない。
傍からみると「大した事ないけんけ!」でも、それぞれには『大した事』であり、日々の生活の中での重大な出来事。
そんな事を『対話』や、『自伝』や、『交換日記』等でなく、インターネット接続がある環境で簡単に見れるようになった、伝える事が出来るようになった事は非常に好い事だと思う。
『人がそこに生きておられる』(by中川先生)
なんだが、それぞれの人がそれぞれの生活環境の中で『伝える事』が出来る事になった事は非常に好い事だ。
曇鸞という中国の坊さんが居る。大昔の人なので当然会った事はない。
この人は私にとっては大切な仕事をしてくれた『先生』なんだが、多くの人には関係ない人でもある。
『亀は意外と速く泳ぐ』を観ながら、狐野先生が昨年秋の講義の中で不老長寿を一時期目指した曇鸞が67年の生涯を病によって終えて行った事、つまり、「念仏申す身となり、平凡な一老人としての平凡な生涯を終えて行った」と云われていた事を思い出す。
また、真宗の現生利益として
「本願を信じ念仏申す中で凡人として生き切って行く事が出来る。落ち込み、悩み、これが私であると正々堂々と生きて行ける」みたいな事を云われていた事を思い出す。
目立ちたい、輝きたい、と平凡をきらう。
でも、『映画は生きものの記録』であったりする。
被差別者との連帯等と云うが、結局『それぞれの人生』という事、その『それぞれの人生』を認めない『部分』が問題ではないのか。
「あんなヤツ等」と云い、『敵』にして、自分とも他人とも出会おうとせずに、身内で凝り固まる。セクト主義。
そうやって、日々の生活に緊張して、連休明けにも関わらず肩がこってます。昨日、温泉&マッサージ行ってんけどなぁ。。。