坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

浄土真宗親鸞会

2007年05月24日 | 坊主の家計簿
 5月24日
 
 外食  冷麺          580円
 食類  うなぎ穴子飯      200円
     発泡酒2        350円
     シイラ刺身       250円
     ニラ           98円

 合計             1478円
 5月累計          86545円

 なんや、阪神戦は今日はないのか。。。予定してた原始仏教の学習会が日程変更になったからビール(すいません、見栄はってしまいました。。。発泡酒です)でも飲みながら阪神の応援でもしようと思てたのに。
 本願寺派の知人に貸した黒衣を取り戻しに行こうとも思てたんだが、これは彼と知り合った会合が30日にあるのでその日にしよ。

 大谷派と本願寺派、つまり東西本願寺では衣も違う。当然、声明の作法も読み方も違う。その辺をテーマにして彼は発表したらしかった。
 なんだが、6月初めの法要にその衣を着ないといけないし、もう一着同じ四季兼用も持っているには持っているんだが、これはリニューアルしたばっかりなのでしばらく保存したいのだ。冬用は暑いし。

 上座部から比べて大乗を観る事は愚かである。その逆も当然同じく。
 上座部といっても、上座部の歴史がある。当たり前ながら釈尊当時と今の上座部教団は違う。
 大乗も当然の事ながら大乗教典は釈尊が書かれたものではない。それ以前に釈尊が書かれたものなど残っていない。よって「どれが釈尊の直説に一番近いか」「どれが一番古いか」みたいな研究も盛んだったりするわけやし。

 この辺の議論は結構大事だったりする。大乗なんぞは特にそうなんだろうが、基本的に『私が見出した釈尊』である。
 少なくとも私にとってはそれ以外の何ものでもない。
 よって、私にとっては「あなたが信じている事は釈尊の教えでもなんでもないですよ」と云われても「はあ、そうでっか」ぐらいにしか過ぎない。
 同じく「あなたが信じている親鸞聖人の教えは親鸞聖人の教えでもなんでもないですよ」といわれても、「それがどうかしましたか?」でしかない。

 親鸞会という浄土真宗の教団がある。当然、親鸞会の歴史、つまり本願寺派から分かれて『浄土真宗親鸞会』としての歴史がある。
 その教団からしたら、大谷派なんぞ本願寺派以上におかしな教団だろう。
 つまり「正しい親鸞聖人の教えを伝えていない」と親鸞会の教えからすると見えるのだろう。
 まあ、そらそうだろう。大谷派の多くの僧侶達は覚如の事をあまり評価して居ないし。つまり単純に歴史が違うわけだし、法脈が違う。
 その法脈を、御自分達の法脈を照らし合わせて「親鸞聖人の正しい教えを伝えていない」とはナンセンス極まりない。

 当然、相互批判は大事である。相互批判しながら互いに刺激を受け合う事は大事である。だが、最初から邪教扱いされたらたまったものではない。
 
 今日、ちらほらと掲示板の方で過去にやった親鸞会の会員を名乗る人との議論を読んでいたのだが、私は彼が本当に親鸞会の会員かどうかは知らない。親鸞会に確かめた事がない。ただ、親鸞会の会員を名乗る人が余りにも「本願寺は正しい親鸞聖人の教えを伝えていない」と云う事にカチンと来ただけでの論争であった。
 同様に当時に色々とネット検索した中でもやはり同様の事が見受けられた。
 それが『一会員』なのか『親鸞会としての立場』なのかまでは知らないし、興味がない。
 自分の信仰が『正しい』と思うのは当たり前の事だろうし、その中でのそういう発言も当たり前の事だろう。

 だが、例えば私が「親鸞会は邪教である」と云うと不愉快な思いをするであろう事を少なくとも私は彼から云って貰いたくなかった。彼は彼なりに親鸞会で真宗仏教の教えを学べばイイだけの話である。
 その中での「同じ教えを学ぶものどうし』としての批判なら解るが、現実にそれは不可能である。単純に法脈が違う。
 学者なら『親鸞直筆のものと証明されたもの』だけを使って議論するのだろうが、私には無理だし、恐らく多くの真宗仏教を学ばれている人には不可能である。出来るのは一部の学者ぐらいなもんだろう。
 そういう議論に私は興味がない。
 教団が違うとはそういう事である。法脈が違うのである。
 
 当然、どちらの方脈が正しい等とはほぼ無意味である。
 それは原始仏典の最古層である

 【ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。
 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。】(岩波文庫『ブッダの言葉』並ぶ応答‐小篇より)

 でもハッキリしている。
 
 仏教は釈尊で停まったわけではない。釈尊から『始まった』わけである。厳密にいうのなら釈尊が気づいた事から始まったか。初転法輪だし。
 その流れで親鸞は存在する。真宗仏教だって停まってはいない。多くの教団に分かれて存在する。それが仏教の流れであり、あとは御自分達がそれぞれに選べばエエだけの話である。

 『正義』、『正しさ』の押しつけ程、うっとうしいものはない。
 「あなたの為を思って」なんぞ、人の為を思える程偉そうなヤツの言葉に耳を貸す義務はない。
 それは人道主義を絶対化してそこから差別する人と同じでうっとうしいだけである。

 ちなみに私は大谷派が伝える仏教の流れがおかしいと感じたら辞めるだけである。
 それは多くの私がお参りしている先の門徒さんにも云える。
 信仰は自分で選ぶものである。決して先祖伝来だからいって固定化するものでもない。

 仏教よりも靖国神社の方を選びたかったら選べばエエだけの話である。
 仏教よりも神道や、キリスト教等の他宗教の方を選びたかったら選べばエエだけの話である。
 真宗教団でも同じである。大谷派ではなく、他の真宗教団の方を選びたかったらそちらを選べばエエだけの話である。