7月27日
雑費 缶コーヒー 120円
週刊文春 320円
温泉 600円
マッサージ機 100円
煙草 300円
市民税 16000円
青草人の会年会費 5000円
東西本願寺の会カンパ 5000円
真宗年間購読 3000円
外食 焼き肉ビール飯 3024円
合計 33464円
7月累計 95637円
昨日の野望、温泉へ。&風呂上がりに焼き肉屋で晩飯&晩酌。
途中、コンビニに寄って週刊誌を買う。今回は巻頭特集が気に入ったので(っちゅうか、あんまり週刊誌が置いてなかったし)週刊文春。
巻頭特集は天皇の靖国発言。諸々、興味深く読む。
思うのだが、『A級戦犯分祀』ちゅうのは、新たな靖国の始まりやねんな。
それは別にA級戦犯分祀によって禊ぎを済ませ、天皇の靖国参拝を認めるだけでなく、A級戦犯以外は戦争の犠牲者でしかなかったと。
青少年犯罪が起った時によく語られる心優しき人達のコメントで
「子どもは純粋な存在です。ですから、そんな純粋な子ども達が犯罪を犯したと云う事は、周囲の大人達が悪いのです。そういう社会環境を作り出して来た私達大人に責任があるのです。」
こういうコメントをする人達は、青少年時代に犯罪行為を犯した事がないのだろうか?社会や学校、親、大人達に疑問を感じつつもそのまま学校生活、青少年時代を過ごしたのだろうか?あるいは全くのよゐこで社会や学校、親、大人達に反抗心も疑問も感じなかったのだろうか?あるいはすっかり『大人の心』になってしまって、青少年時代の悔しさを忘却してしまったのだろうか?
「自分の人生は自分で決めてもよい」と云う事は私が凄く嬉しかった事である。私の人生なんだから、私の人生の中での事は私が責任を取れる。それは社会や学校、親、大人達等に奪われていた『と思い込んで居た』私の人生の回復。
よって、
「子どもは純粋な存在です。ですから、そんな純粋な子ども達が犯罪を犯したと云う事は、周囲の大人達が悪いのです。そういう社会環境を作り出して来た私達大人に責任があるのです。」
等と云うコメントは私にとっては外道のコメントとしか思えない。
当然、そういう『世』を作り出して来た私にも責任はある。しかし、まずは本人、つまり青少年犯罪者の『個』の確立を私は当然優先する。
A級戦犯分祀によって、他の靖国に祀られている人達は単なる戦争犠牲者になる。確かに犠牲者でもある。しかし、戦争に彼らが戦争に行ったと云う彼らの人生を否定するつもりはない。
多くの戦争に行って生き残った人達が戦争反対を叫んで居る。それは「戦争に行った」という責任から来ているものだと私は感じる。また、戦争を体験した人しかり。彼らには彼らなりのたった一度きりの人生があり、戦争体験を否定する事は彼らにとって彼らの一時期の人生を「間違って居た」と懺悔であり、その懺悔が故の「戦争は二度としたらあかん」なんだろう。
あるいは強制連行・従軍慰安婦。彼らも同じ。彼らの人生がたった一度きりの人生だからこそ叫ばずには居られなかったのではないのか?
そういう『個』を無視する、たった一度の人生を否定していく様な発想・思想は真っ向批判する。
週刊文春なんぞ滅多に読まないが、元ヤンキー先生の義家氏も連載してたのね。
【人が人に対して『キモチワルイ』なんて言っていいはずがないだろう。バカ、アホならまだシャレで通じる。でも、相手に対して『キモチワルイ』、それは最も相手を侮辱する言葉だ!】(週刊文春8月3日号98ページより)
珍しく意見があう。但し今回の連載の結論には同意出来ないが、この言葉は同意する。んが、私は『キモチワルイ』とシャレや皮肉を込めて使うが。
しかし、義家氏が云うように相手を大真面目に侮辱する言葉は許せない。
【腐らされた生徒はいるけど、腐った生徒なんていない】(月刊同朋2005年9月号の水谷修氏へのインタビュー記事より)
この言葉は、単なるインタビュー記事だけでなく、月刊同朋記事内の見出しの一つになっている。
『腐っている人間』或いは『腐らされた人間』とはどういう人間なんだろうか?
例えば水谷氏はやたらと『夜の世界』『薬物』などと云うが、例えば夜の世界の住人、あるいはジャンキーが「私は腐っています。ですから助けて下さい」なら解る。本人自身が「私は腐っています」と云ってるんだから。
しかし、夜の世界の住人あるいは、ジャンキーが水谷氏の月刊同朋2005年9月号のインタビュー記事を読んだら激怒するだろう。いや、「だって坊さんの世界の雑誌だろ。そんなの健全で当たり前じゃん!」で済むか(笑)まあ、誰も期待してないわな(爆)当然、『人それぞれ』だが。私は水谷氏のような偏見でもって生身の人間を決めつけようとする事は思想信条にあわんし、宗教的にも反する。
義家氏が『キモチワルイ』と云う発言にキレたように、私も『腐らされた』と云う言葉にキレている。
また、水谷氏が『腐らされた』と云う表現方法を取るのを青少年に限定しても同じだ。私はその『腐らされた』人間だったし、周りにも沢山居たし、また『大人』と呼ばれる年齢になっても同じである。水谷氏が『腐らされた生徒』と呼ぶ高校生との付き合いもあったし、よって『腐らされた生徒』等と云う言葉は差別発言以前の人間が人間に対して言ってはいけない言葉だと感じる。
しかし、そういうコメントを見出しの一つにまでして、ついでに
【水谷さんは決して善人の立場に立たない。善に立っていることに無自覚な現代の風潮が、子どもたちの問題をはじめ、あらゆることの根本にあることを改めて教えられた。】(月刊同朋2005年9月号25ページより)
等と『インタビューを終えて』の感想にする感性が私には全く解らない。前提を問え!
と云う事で、月刊同朋は今年限りで購読辞め。頭が痛い文章なんぞこれ以上読む気にならん。しかも別に『教化費』等の名目で必要経費として落とせるわけもない。自腹を切って読むにはもったいない。っちゅうか、怒りが収まらんかったら購読するだろうが、今は読む気にもならん。
どうも大谷派教団は『エリート路線』に向かっている気がする。
私は高倉会館で(確か)水俣の漁師の話や、反戦運動家・彫刻家の話を聞きにいけなくて残念だと思う。それは『世のいのり』なんだろうし、非常に聞きたかった。しかし、水谷氏の立場は廃悪修善なんだろうし、それ以上に非常に怖い『健全思想』『優生思想』の臭いがプンプンして仕方がない。
しかし、当然『エリート路線』では受け入れられるんだろう。『悪人』と呼ばれた事のない人達の間では受け入れやすいのかもしれないし。
また、当然の如く伝統教団真宗大谷派で反モラル的な事を期待する私が間違っているのだろう。当然、そうでない先輩達に出会って感動して真宗大谷派教団に入ったのだが。。。
また同様にこれはほんのごく一部なんだろうが、「行動しないとダメ!」、解りやすく云うと「社会運動に関わらないとダメ!」みたいな風潮にも危惧する。
部屋掃除してたらこんな事が書いてあったチラシが出て来た。
【現在、日本国内に見ても、世界的に見ても、歴史的に見ても大変な時代転換の時に向かっております。そういう時に、ここにこうして会合した我々一人ひとりがですね、真宗門徒としての信心に生きるということが、要求されておるんでしょう。必ずしも、本当の信心をいただいたら、黙っとるわけにはいかん、何か行動にあわらされないかん、ということを皆言いますけれども、行動というのは、積極的に動くのも行動です。黙っておるのも一つの行動です。反動という行動もあります。行動さえすればいいというもんじゃないんです。
何もしないということも一つの行動です。あえて逆らっていくということも一つの行動です。だから、一体何をもって行動とするのかという、行動という事の範囲が広うなりますね。それは、私どもが、日々いただく全てのことが皆、我が身を明らかにする問いとしての意味を持っておった。その問いを生きるということが行動ですね。一人ひとりの行動をこうあらねばならんと決めるのではない。決めたらそれはイデオロギーです。真宗の門徒たるものはこうあるべきである、そういうことを親鸞さんは言ってません。必ずしも我々が考えておる行動という意味ではないんではないかと私は思うんですね。
そこに、我々が限りなく限りなくこの自分の人生に聞いていく。何を聞くかというと、終わりのない問題を聞いていくんです。問題に終わりがないということは、私の歩みにも終わりがないということです。歩みにも終わりがないということは、世界が広がり続けていくということです。我が身の世界が公共の世界へ生まれ変わり生まれ変わっていくということです。そういうことが、生きておるしるしと、前回のときにですね、生きるしるしとは何かということがまた一つテーマになったようですけれども、こういうことも特に現代において、我々が深く考えていかなければならない問題ではないかと思うんですね。】(和田稠 2005年3月11日の『同塵の集い』講義より。但し主催同塵の集い2006年7月13日難波別院での高橋法信氏の講義のチラシより)
まあ、和田先生は「天皇に人権を」と云った人だし、関係ないのかもしれないが、『同塵の集い』はいわゆる『社会的な活動』もしている人達が多く居る会なんだが。。。しかも私の事を『腐らされた』などとはあの人達は絶対に云わなかったし。
雑費 缶コーヒー 120円
週刊文春 320円
温泉 600円
マッサージ機 100円
煙草 300円
市民税 16000円
青草人の会年会費 5000円
東西本願寺の会カンパ 5000円
真宗年間購読 3000円
外食 焼き肉ビール飯 3024円
合計 33464円
7月累計 95637円
昨日の野望、温泉へ。&風呂上がりに焼き肉屋で晩飯&晩酌。
途中、コンビニに寄って週刊誌を買う。今回は巻頭特集が気に入ったので(っちゅうか、あんまり週刊誌が置いてなかったし)週刊文春。
巻頭特集は天皇の靖国発言。諸々、興味深く読む。
思うのだが、『A級戦犯分祀』ちゅうのは、新たな靖国の始まりやねんな。
それは別にA級戦犯分祀によって禊ぎを済ませ、天皇の靖国参拝を認めるだけでなく、A級戦犯以外は戦争の犠牲者でしかなかったと。
青少年犯罪が起った時によく語られる心優しき人達のコメントで
「子どもは純粋な存在です。ですから、そんな純粋な子ども達が犯罪を犯したと云う事は、周囲の大人達が悪いのです。そういう社会環境を作り出して来た私達大人に責任があるのです。」
こういうコメントをする人達は、青少年時代に犯罪行為を犯した事がないのだろうか?社会や学校、親、大人達に疑問を感じつつもそのまま学校生活、青少年時代を過ごしたのだろうか?あるいは全くのよゐこで社会や学校、親、大人達に反抗心も疑問も感じなかったのだろうか?あるいはすっかり『大人の心』になってしまって、青少年時代の悔しさを忘却してしまったのだろうか?
「自分の人生は自分で決めてもよい」と云う事は私が凄く嬉しかった事である。私の人生なんだから、私の人生の中での事は私が責任を取れる。それは社会や学校、親、大人達等に奪われていた『と思い込んで居た』私の人生の回復。
よって、
「子どもは純粋な存在です。ですから、そんな純粋な子ども達が犯罪を犯したと云う事は、周囲の大人達が悪いのです。そういう社会環境を作り出して来た私達大人に責任があるのです。」
等と云うコメントは私にとっては外道のコメントとしか思えない。
当然、そういう『世』を作り出して来た私にも責任はある。しかし、まずは本人、つまり青少年犯罪者の『個』の確立を私は当然優先する。
A級戦犯分祀によって、他の靖国に祀られている人達は単なる戦争犠牲者になる。確かに犠牲者でもある。しかし、戦争に彼らが戦争に行ったと云う彼らの人生を否定するつもりはない。
多くの戦争に行って生き残った人達が戦争反対を叫んで居る。それは「戦争に行った」という責任から来ているものだと私は感じる。また、戦争を体験した人しかり。彼らには彼らなりのたった一度きりの人生があり、戦争体験を否定する事は彼らにとって彼らの一時期の人生を「間違って居た」と懺悔であり、その懺悔が故の「戦争は二度としたらあかん」なんだろう。
あるいは強制連行・従軍慰安婦。彼らも同じ。彼らの人生がたった一度きりの人生だからこそ叫ばずには居られなかったのではないのか?
そういう『個』を無視する、たった一度の人生を否定していく様な発想・思想は真っ向批判する。
週刊文春なんぞ滅多に読まないが、元ヤンキー先生の義家氏も連載してたのね。
【人が人に対して『キモチワルイ』なんて言っていいはずがないだろう。バカ、アホならまだシャレで通じる。でも、相手に対して『キモチワルイ』、それは最も相手を侮辱する言葉だ!】(週刊文春8月3日号98ページより)
珍しく意見があう。但し今回の連載の結論には同意出来ないが、この言葉は同意する。んが、私は『キモチワルイ』とシャレや皮肉を込めて使うが。
しかし、義家氏が云うように相手を大真面目に侮辱する言葉は許せない。
【腐らされた生徒はいるけど、腐った生徒なんていない】(月刊同朋2005年9月号の水谷修氏へのインタビュー記事より)
この言葉は、単なるインタビュー記事だけでなく、月刊同朋記事内の見出しの一つになっている。
『腐っている人間』或いは『腐らされた人間』とはどういう人間なんだろうか?
例えば水谷氏はやたらと『夜の世界』『薬物』などと云うが、例えば夜の世界の住人、あるいはジャンキーが「私は腐っています。ですから助けて下さい」なら解る。本人自身が「私は腐っています」と云ってるんだから。
しかし、夜の世界の住人あるいは、ジャンキーが水谷氏の月刊同朋2005年9月号のインタビュー記事を読んだら激怒するだろう。いや、「だって坊さんの世界の雑誌だろ。そんなの健全で当たり前じゃん!」で済むか(笑)まあ、誰も期待してないわな(爆)当然、『人それぞれ』だが。私は水谷氏のような偏見でもって生身の人間を決めつけようとする事は思想信条にあわんし、宗教的にも反する。
義家氏が『キモチワルイ』と云う発言にキレたように、私も『腐らされた』と云う言葉にキレている。
また、水谷氏が『腐らされた』と云う表現方法を取るのを青少年に限定しても同じだ。私はその『腐らされた』人間だったし、周りにも沢山居たし、また『大人』と呼ばれる年齢になっても同じである。水谷氏が『腐らされた生徒』と呼ぶ高校生との付き合いもあったし、よって『腐らされた生徒』等と云う言葉は差別発言以前の人間が人間に対して言ってはいけない言葉だと感じる。
しかし、そういうコメントを見出しの一つにまでして、ついでに
【水谷さんは決して善人の立場に立たない。善に立っていることに無自覚な現代の風潮が、子どもたちの問題をはじめ、あらゆることの根本にあることを改めて教えられた。】(月刊同朋2005年9月号25ページより)
等と『インタビューを終えて』の感想にする感性が私には全く解らない。前提を問え!
と云う事で、月刊同朋は今年限りで購読辞め。頭が痛い文章なんぞこれ以上読む気にならん。しかも別に『教化費』等の名目で必要経費として落とせるわけもない。自腹を切って読むにはもったいない。っちゅうか、怒りが収まらんかったら購読するだろうが、今は読む気にもならん。
どうも大谷派教団は『エリート路線』に向かっている気がする。
私は高倉会館で(確か)水俣の漁師の話や、反戦運動家・彫刻家の話を聞きにいけなくて残念だと思う。それは『世のいのり』なんだろうし、非常に聞きたかった。しかし、水谷氏の立場は廃悪修善なんだろうし、それ以上に非常に怖い『健全思想』『優生思想』の臭いがプンプンして仕方がない。
しかし、当然『エリート路線』では受け入れられるんだろう。『悪人』と呼ばれた事のない人達の間では受け入れやすいのかもしれないし。
また、当然の如く伝統教団真宗大谷派で反モラル的な事を期待する私が間違っているのだろう。当然、そうでない先輩達に出会って感動して真宗大谷派教団に入ったのだが。。。
また同様にこれはほんのごく一部なんだろうが、「行動しないとダメ!」、解りやすく云うと「社会運動に関わらないとダメ!」みたいな風潮にも危惧する。
部屋掃除してたらこんな事が書いてあったチラシが出て来た。
【現在、日本国内に見ても、世界的に見ても、歴史的に見ても大変な時代転換の時に向かっております。そういう時に、ここにこうして会合した我々一人ひとりがですね、真宗門徒としての信心に生きるということが、要求されておるんでしょう。必ずしも、本当の信心をいただいたら、黙っとるわけにはいかん、何か行動にあわらされないかん、ということを皆言いますけれども、行動というのは、積極的に動くのも行動です。黙っておるのも一つの行動です。反動という行動もあります。行動さえすればいいというもんじゃないんです。
何もしないということも一つの行動です。あえて逆らっていくということも一つの行動です。だから、一体何をもって行動とするのかという、行動という事の範囲が広うなりますね。それは、私どもが、日々いただく全てのことが皆、我が身を明らかにする問いとしての意味を持っておった。その問いを生きるということが行動ですね。一人ひとりの行動をこうあらねばならんと決めるのではない。決めたらそれはイデオロギーです。真宗の門徒たるものはこうあるべきである、そういうことを親鸞さんは言ってません。必ずしも我々が考えておる行動という意味ではないんではないかと私は思うんですね。
そこに、我々が限りなく限りなくこの自分の人生に聞いていく。何を聞くかというと、終わりのない問題を聞いていくんです。問題に終わりがないということは、私の歩みにも終わりがないということです。歩みにも終わりがないということは、世界が広がり続けていくということです。我が身の世界が公共の世界へ生まれ変わり生まれ変わっていくということです。そういうことが、生きておるしるしと、前回のときにですね、生きるしるしとは何かということがまた一つテーマになったようですけれども、こういうことも特に現代において、我々が深く考えていかなければならない問題ではないかと思うんですね。】(和田稠 2005年3月11日の『同塵の集い』講義より。但し主催同塵の集い2006年7月13日難波別院での高橋法信氏の講義のチラシより)
まあ、和田先生は「天皇に人権を」と云った人だし、関係ないのかもしれないが、『同塵の集い』はいわゆる『社会的な活動』もしている人達が多く居る会なんだが。。。しかも私の事を『腐らされた』などとはあの人達は絶対に云わなかったし。
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