坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

欽ちゃんプロレス

2006年07月23日 | 坊主の家計簿
 7月23日

 雑費   クエン酸飲料       120円
      ツタヤ更新料       200円
      タバコ          300円
 外食   回転寿司         420円
      餃子ラーメンライス    750円

 合計         1790円
 7月累計      47979円

 さすがにお疲れ。仕事が終わってダルダルモード。
 ツタヤ会員の有効期限近し。と云う事でツタヤへ。ついでに更新したら3本無料らしいので、「ダルダルモードにはビデオでっせ」と
 『ガルフ・ウォー』
 『バス174』
 のDVDと、『GO!GO!7188』のライヴCDを借りる。
 んが、野球のオールスターだったのね。なのでダラダラとテレビを観て過ごす。藤本MVPおめでとう。

 で、欽ちゃん球団の田舎芝居は良かったなぁ~。もう最初から最後まで臭くってたまらないんだが、ああいうドサ回りの田舎芝居は結構受けるんだろうし、なんせ元々芸能界の人やし、まあ勝手にやってればイイ。
 で、ここは田舎芝居ついでに『欽ちゃん野球スクール』っちゅうのは如何だろうか?
 「みんな、山本を許してやってくれよ。山本だって本当に野球が好きなんだ。」とファン&マスコミに宣伝する。
 欽ちゃんは保護司の資格なんかも取ってやな、全国の不良を更生さす。っちゅうのは如何だろうか?「スポーツしてる人間は肉体も精神も健康である」というアホの風潮はまだ残って居ると思うし。
 『夜回り欽ちゃん』と云うのもエエかもしらん。新宿などを深夜にうろついているガキに「君達、こんな所で青春をくすぶらしていないで僕と山本と一緒に野球をしようよ!」と云うのはどうだろうか?
 「ウルセー、デブ!テメーみたいな犯罪者に云われたくないよ!」と山本が殴られる。殴られてボコボコになっても一切反撃しない山本は絵になるではないか。
 欽ちゃんは泣く。「辞めてくれ!そんな事してないで、一緒に野球をやろうよ。」号泣しながら土下座をしてガキに頼み込む欽ちゃん。
 この辺りでガキも一緒に泣いて貰おう。
 「欽ちゃん。。。いや、萩本さん。俺達が間違ってた。俺達も本当は熱くなれるものが欲しかったんだ。だからこうやって深夜の街を徘徊して喧嘩ばっかりしてたんだ。」
 変わらず号泣しながら土下座状態の欽ちゃん。「君達。。。」と、もっと泣く。
 「萩本さん。」と、ガキも土下座する。「悪かった、俺達が悪かった」と。
 「解ってくれたら良いんだ。解ってくれたら。さあ、君達も覚醒剤を打たずにホームランを打とう!」
 当然、テレビカメラは回って居る。
 時は経ち、ガキ達は深夜の乱れた生活から欽ちゃん農園で働きながら野球を始める。出来ればこの辺りで青空が欲しい。青空の下、懸命に自然に囲まれた農園で働く『元新宿のガキ』に、青空の下で汗を流しながら働く『笑顔』が欲しい。青空と汗に負けない様なさわやかな笑顔が欲しい。出来れば一緒に山本にも笑って貰いたい。

 と云うような『テレビ田舎芝居』が半年後には出来そうな気がするのだが。。。どうせやるならそこまでやれ。

 感情っちゅうのは、もの凄く大切なものだと思う。
 別におもしろくなければ笑う必要はないし、悲しくなければ泣く必要もない。

 問い「下線Bの部分で作者は何を云いたかったのでしょう。100字以内に述べよ」
 答え「作者じゃないので解りません。そんな事は作者に聞いてみるのが一番であって、私に聞く問題ではありません。その上で私に聞くのならば、それは私の感性と先生の感性との違いを確かめあう会話の道具としてならば理解出来ますが、それはこういう期末試験のテスト用紙には相応しくありません。直接の対話、あるいは交換日記等の方法が正しい方法だと考えます。先生、好きです。交換日記して下さい。」
 先生「まあ、山田君ったら。。。ああ、イケナイ。。。生徒との禁断のアバンチュール。教育委員会に呼び出される私。でも、私は愛を貫くの。そう、私は愛に生きる女になるの!」

 テレビとか、小説なんぞと云うものは基本的にオーバーな感情表現が多いと感じる。映画でもなんでもなんだろうが。『作りもの』だし。
 でも、その作りものの感情表現の方が受けたりする場合を非常に感じる。『酔いたい』んだ。要するに。『酔いたい=孤独』でもいいんだろう。ガキは別にオモチャが本当に欲しいから泣くじゃくっているのでなく、途中からは保護者に振り向いて貰いたいのではないのか?
 大人になってもそれはあんまり変わらん気がする。オーバーな感情表現をする事によって、酔う事によって『認めて貰いたい』と。出来れば同じ『酔い』を感じれる人が欲しい、と。

 当然、作りものの台詞がかった言葉は『つくりもの』が故に受ける。当たり前だ。作りものなんだし。受けるように作られた言葉なんだから。
 で、それは別に小説とかテレビドラマ、映画などでは当然害はない。最初から作りものと解っているんだし。別に構わない。作りものは作りものの作品として、それを読んだり観たりしてる間は『酔わせてもらってナンボ』の世界なんだし。作者は『酔わせてナンボ』の世界なんだし。
 でも、それが『作品』以外から出て来たら、うっとうしい。長渕の歌はうっとうしいが、あれは歌だから許せる。でも、例えばイラクで人質になりながらも、解放されて直後のカメラの前で「でも、私、イラクの人達をきらいになれない」と云う様な『セリフ』を云う事は、うっとうしいを通り越して大真面目に怖い。それに感動した人達も怖くて仕方がない。

 作られた言葉だから感動するのは当然であるが、それは『作品』の外から出てはならない。いや、当然出るんだろうが、でも、それはあくまでも作られた言葉のセリフでしかない、という様な冷静さ、大阪でなら「ちょっと臭かったかな」ぐらいの照れ笑いが欲しい。その照れ笑いもなくセリフを云った本人ですらそのセリフに酔い、その言葉を聞いた人達もそのセリフに酔う。「感動しました」と云う自分が発したセリフの感想を聞く事によってまた自分のセリフに酔う。酔う事を辞めようとしない。酔い続けようとする。酔う事によって評価されたんだし、褒められたんだし。褒められたら嬉しいんだから酔う事を辞めようとはなかなか思えるわけも無い。

 ヒーローでも、作られたセリフでもなんでもエエのだが、そんな人がつくり出したもんに従う義理などないぞ。