坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

民主主義主義

2008年05月26日 | 坊主の家計簿
 5月26日

 食類  アクティブダイエット8   760円
     発泡酒           174円
     ちくわ            78円
     豆腐             98円

 合計               1110円
 5月累計            88631円

 長崎市長選で現職市長を射殺した人に死刑判決が出た。
 http://www.asahi.com/national/update/0526/SEB200805260008.html
 上記の朝日の記事では
【松尾嘉倫(よしみち)裁判長は「民主主義を根底から揺るがす犯行で、極刑はやむを得ない」】
 とあり、
 毎日新聞のサイトにあった死刑判決の要旨(http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080527k0000m040064000c.html)では
【暴力によって被選挙人の選挙運動と政治活動の自由を永遠に奪うとともに、選挙民の選挙権の行使を著しく妨害したのであり、民主主義の根幹を揺るがす犯行というべきである。民主主義社会において到底許し難い。】
 とある。

 民主主義というのがどういう考え方で出来た歴史的経緯は知らない。ただ、『民が主』の発想なんだろう。だから『民主主義』と。
 判決報道でしか判決の事は知らないが、なんとなく『民主主義主義』という言葉を思いつく。
 『民主主義』は『民』よりも『主』なのか?
 『民』よりも『民主主義』の方が尊いのか?
 なんか、ひっくり返っている気がしてならないのだが。

 当然、犯行自体は認められるわけがない。人を殺害し、またそれが選挙期間中であった。それこそ、民主主義の根幹を揺るがすテロである。
 だが、その事が死刑判決の中に盛り込まれる、無期でなく死刑判決である事に、どうしても私が思い描いている『民主主義』との間に違和感がある。
 民主主義に背く事が、判決を重くする理由のひとつになる事に違和感を憶える。

 『民主主義は神聖にして犯すべからず』と憲法に明記すればいいのに。それなら、「ああ、あの人は民主主義に反抗したから罪が重くなって当たり前だ」。。。にはならんが。
 
 人が作り出した価値観によって、主義によって、人が主ではなくなる。
 民主主義が絶対正義、犯してはならない聖域であるのなら、それに従わなければならないのは民主主義社会に生きる全ての人である、はずである。なら、その民主主義は利用してはいけないと思うのだが。例え裁判官であっても。
 裁判官であっても民主主義には従わなければならない。従わなければならないのならば、民主主義を量刑を重くする為に使ってはならないと思うのだが、どうなんだろうか?

 民主主義が人を支配する為の道具になる。
 民主主義に背いた者は、同じ殺人であっても、判決が重くなる。死刑判決を出す理由のひとつになる。なった。過去にもあったのかも知れないが、知らないが、今回の判決はそういう判決である。

 ある在日コリアンの人と20年近く前に話してた時にタマタマ福沢諭吉の話が出た。
 「福沢諭吉は『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と云ったが、朝鮮人は人ではないと云った」とかなんとか。
 福沢諭吉は多分、人権とか、民主主義は好きだったと思う。それが正義であると疑わなかったのではないかと勝手に想像する。

 今回の裁判官は
【被害者は約12年間、長崎市長を務め、被爆都市の市長として世界に平和を訴え続けてきたし、暴力団などによる行政への不当要求の排除にも尽力してきたのであり、多くの市民に支持されてきた。】(http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080527k0000m040064000c.htmlより)
 等と書かれていると云う事は、かなり人権や民主主義に対しての関心が深いと思われる。
 それが故に、死刑判決の理由のひとつに『民主主義社会において到底許し難い』と書いたのではと思うのだが、どうだろうか?

 民主主義は大事である。大事であるが故に、その『主義』によって量刑が重くなる事はあってはならない。それは民主主義を堕落させる事ではないのか?民が主でなく、主義が主である。
 それは危ない、無茶苦茶危ない。

 何かの主義を立てる。立てた主義から人を判断する。
 民主主義に適う人。適わない人。
 人道主義に適う人。適わない人。
 そこから、その主義の正義から人を裁く。両主義に適わない人は罪が重くなる。
 民主主義によって人の価値が変わる。
 人道主義によって人の価値が変わる。

 裁判官は人を裁く人。だったら尚更の事、まず真っ先に自分が民主主義に従わなければならない立場であり、人道主義に従わなければならない立場である事を確認しないと危ない。
 民主主義でもって、人道主義でもって、量刑が重くなる事はあってはならない。

 民が主である。
 民には様々な人がいる。
 民主主義に適う人もいれば、適わない人もいる。含めての『民』である。
 民主主義に適う人だけが『民』ではない。それなら民主主義の名を借りた全体主義である。

 「フリーチベット!」を叫ぶ一部の人達にも感じた事だが、民主主義の名を借りた全体主義が流行中なのか?

 民が主の民主主義。
 民には様々な人がいる。様々な思想を持ち、様々な人生を歩まれている。
 その様々な人の中には民主主義に背く人も居る。それらの人を『民』に含めないのが民主主義なのか?背く人も含めての民主主義ではないのか?それが故に『民が主』ではないのか?

 民主主義主義の全体主義。
 都合の民主主義。

 都合を問う民主主義。
 
 『民』、具体的には一人一人の人生。顔。生身の人間。それを『主義』で覆い隠す。
 民主主義でもって、『民』が見えなくなるのなら、そんなものは民主主義の名を借りた全体主義でしかない。