坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

門徒『日本人のしきたり』知らず

2008年05月11日 | 坊主の家計簿
 5月11日

 外食  ラーメン       304円
 雑費  古本         350円
 食類  発泡酒        199円
     ショウガ漬け     168円
     しょうが天       68円
     焼きぶり       165円

 合計            1253円
 5月累計         43982円

 めっきり寒くなったので衣を冬用に。
 って、5月やぞ。昨日の夕方、駅前の温度表示が『12℃』ってなってて、「アホか!」でっせ。
 とはいえ、気候に怒ってもしゃーないので洗濯しようと放ったらかしになっていた冬用の衣に変更。ついでに下着も真冬用に。防寒対策ばっちしやで。ばっちし過ぎて、昼過ぎには暑い、っちゅうねん。

 古本は『日本人のしきたり』(飯倉晴武/編著)

 無茶苦茶素朴な疑問なんだが、この場合の『日本人』って誰や?
 ちなみに『しきたり本』ではないのだろうが、似た様な日本民俗の本で『民俗小事典 死と葬祭』というのを持っている。これは、まあ、お値段も3200円と少々高い分だけ専門的。より個別事例を書いてある。つまり『○○県の○○地方では』等と書いてある。
 まあ、専門書の部類に入るのと、一般書の部類に入るのとの違いかな?

 とは云え、例えば『日本人のしきたり』等といった場合の『日本人』には当然アイヌ、サンカ、琉球等も入るはずである。だが、まだ最後まで読み終えていないが、読んでる中では出て来てないし、まあ、最後まで出てくる事もないだろう。その事に対して触れている箇所もなさそうだ。
 今日、日本人と云えば、アイヌ、サンカ、琉球も入った上での『日本人』でないとおかしいはずなのだが、それには触れずに『日本人』である。それだけでも、かなり横暴だと思うのだが。。。

 まあ、一般的な『日本人』なのかもしれない。
 けど、その一般論の危険性がこの本にはよく現われている。そんなもん、『一般論』等ないのだ。あり得るとしたら、それは『例外』を生み出す。『一般的ではない』と云う事になる。
 つまり、特殊な事例になる。アイヌ文化、サンカ文化、琉球文化という特殊な例。
 特殊と云えども歴史的な流れの中で『日本人』として含まれた以上、特殊な事例を無視しての『日本人』とは横暴であるし、アホである。
 世界のナベアツの様に「日本人と云った所だけアホになります」とやれば『芸』として認めてやらん事もないのだが(笑)

 別にこれは『日本人』だけではない。
 『男女』なんぞもそれに含まれる。
 『男は暴力的である』とは夢幻にしか過ぎないし、『女は優しい』というのも夢幻にしか過ぎない。そういう人が居てる、というだけの話である。
 男女の身体差も、個別にしか過ぎない。運動神経だって、私はどう考えても浜口京子に暴力で負ける。アジャコングにも負ける。ジャガー横田にも負ける。ジャガー横田は、ジャガー横田の夫にどう考えても暴力では勝つ。一般化した考えでは成り立つのだろうが、それは管理する側の発想である。個別事例は全然違う。
 個別事例を無視して、男女の身体差を判断するが故に、女に暴力で負ける男は『男らしくない』になり、男に暴力で勝つ女は『女らしくない』になる。女の場合はここに『はしたない』も付くのだろう。男女差別の現実があるが故に『女は男を立てなければならない』という一部でささやかれるおかしな『しきたり』もあるのだろうし。
 共に、おおきな御世話であり、横暴な話であり、かつアホである。

 『日本人のしきたり』として、「ああ、こういう事もあるねんな」と云うぐらいならともかく、『日本人』だからといって押し付けられるのは真っ平御免である。
 男女も同じである。個別事例を無視して考えるが故に、男性よりも身長の高い女性がコンプレックスを持つ原因にもなる事もあるだろうし、その逆もしかりである。何やら、女子バレーの選手なんぞ大変らしいぞ。「私よりも身長の高い男性が少なくて」等という声も聞く。まあ、そんな偏見、自分が縛られている『世間』の偏見から自己を問い、世間を問うて解放されて行くしかないのだろうが。

 真宗門徒は『門徒物忌み知らず』と呼ばれて居たらしい。
 最近思ったのだが、これって決して『門徒』だけではないはず。例えば江戸期の他宗派の僧侶は『物忌み』をしたのだろうか?詳しく調べていないのだが。
 『物忌み』、まあ、『門徒物忌み知らず』の門徒である私は詳しく知らんのだが、死を穢れとするのは仏教でないと思うのだが、どうなのだろうか?
 例えば、他宗派の僧侶が「あ、今日は仏滅や」とか、「あ、今日は友引や」とか気にするとは思えんのだが。。。あるいは、葬儀の後に塩を踏んでから寺に帰るとかってないと思うのだが。。。どうなのだろうか?
 では、何故、『門徒物忌み知らず』かというと、『門徒』と『真宗僧侶』が同じ行しかしてないから、基本的に区別がないから、とは考えられないだろうか?
 つまり、他宗では『檀家』と『僧侶』であるのが、真宗教団では『共に門徒』であるが故に。
 他宗では檀家が修行を積んだ僧侶に布施を渡して功徳を分け与えてもらうみたいな感じなのだろうが、真宗では『門徒』も『僧侶』もおなじ行、つまり念仏しかしない。なんの有り難みのない『僧侶』である。
 が、その事で、歴史的な事実として『門徒物忌み知らず』と呼ばれた。自覚的な仏教者であった。決して『僧侶』だけが自覚的な仏教者でなく、僧侶も門徒も含めて自覚的な仏教者であった。
 『門徒物忌み知らず』という事が、真宗教団の仏教教団としての証しではないのか?それは誇るべき事。

 門徒『日本人のしきたり』知らず。

 ただ、その事を『正義』として振り回す危険性がある。
 『しきたり』というのも、その事を宗教として大切にして居られる方々がいる。
 真宗門徒なら『念仏』だろう。

 【バラバラでいっしょ-差異( ちがい)をみとめる世界の発見-】
 そんな大谷派の言葉がある。
 それは同時に『差異を認められない私の発見』でもある。それを通してしか成り立たない。
 差異を認められないのは外の誰でもなく、私自身でもある。私自身が差異を認められないアホなのである。横暴極まりないアホなのである。
 『門徒の論理』でもって、他を斬り裁くアホである。

 アホを他人事にするから、アホのまんま。
 アホなら、アホと気づけばイイ。

 『日本人のしきたり』
 そんなものなど、ある特殊な日本人のしきたりの話でしかない。特殊な事例を一般化してしまうのはおかしい。それは少数派を無視する発想である。
 その少数派を無視するのが『日本人のしきたり』なら、それもおかしな話である。すくなくとも日本人である私はそういうしきたりに従いたくないし。少数派を無視する仏教は仏教とは呼べるわけがない。関係性としての縁起の無視を認める仏教者は仏教者とは呼べるわけがない。

 個別性。一人一人。
 一人一人はややこしい。出来れば『日本人』だの『男』だの『女』だのと決めつけた方が楽である。
 ただ、それは同時に自分がそういう事に縛られるだけの話である。
 自分自身を一人の人間として尊重して貰いたい事と、相手を一人の人間として尊重する事は同じだと思うのだが。

 変わらず流行中の『自分らしさ』探し。大切な事だと思う。けど、まあ、別に『自分らしく』なくとも、自分は自分として存在してまんがな。
 ただ、キーワードは『決めつける』なんだろう。『決めつける』『決めつけられる』。だから苦しく、喘ぎ、自分らしさを求める。その『自分らしさ』を使って儲ける広告が多くあるのが、まあ、解りやすい話なんだが(笑)
 
 固定化された、決めつける、決めつけられる自分など存在しない。ただ、そういう意識に縛られた自分がいてるだけの話。
 アホである。

 しゃて、40歳になった私は39歳という、3の倍数と3が付く年齢からは逃れる事が出来たのであるが、当然、アホのまんまである。はずである。