坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

支持率

2008年05月05日 | 坊主の家計簿
 5月5日

 食類  アクティブダイエット6   570円
     ミニサラダ          64円
     ポテトサラダ         69円
     幕の内弁当         199円

 合計                902円
 5月累計            19739円

 クソ。。。道路特定財源について書いてたら、ブラウザが落ちやがった。。。ちょっと検索して、ちょっと別のホームページを開いただけやのに。。。ちぇ。

 まあ、ええわ。
 何やら道路特定財源の一般財源化に対して評判がエエらしい。
 道路特定財源とは、ガソリン税、自動車重量税が主な財源らしい。まあ、「車の為に道路を作るねんから、車に乗るヤツが払え」っちゅう事なんだろう。
 それを一般財源化する。つまり通常の税金にする。一般予算に組み込まれる。
 一般予算に組み込まれると云う事は、当然『道路』以外の事柄にも使える。当たり前だ。それが『一般財源化』なんだし。

 私はあまり道路特定財源に貢献していない。その私にとって一般財源化とは「これで増税の時期が遅れる」と云う事である。結構喜ばしい事なんだが、やっぱりおかしい。
 一般財源化するという話しの中で当然出て来た議論は「道路がそれ程いるのか?」と云う事である。ならば、道路特定財源を廃止するなり、安くするのが筋ではないのか?今まであくまでも『車』の為に使って来た税金を『車』以外に使うのならば、それは『車』を多く利用する人達にとっては実質的に増税にしかならないのではないのか?安くなるはずの税金が安くならないわけだし。その分、『車』をあまり利用しない人にとってはラッキーな話しなんだが。
 一般財源化するのなら、道路特定財源を廃止して、決められた税率によって『車』の利用度関係なく増税するのが筋ではないのか?なんか話しがおかしくないか?
 そのおかしな話しの支持率が高いのがよく解らん。

 しゃて、寺。
 葬儀の御布施は高い。
 何やら戒名で数十万の戒名料を請求する所もあると聞く。
 寺は寺として維持していかなければならない。維持する為には経済、つまり金も必要である。その為に必要な事でもある。
 なんだが、これって、信仰が前提。信仰する場だから、信仰する大切な場だから、その場所を維持して行く為に『御布施』なりを払う。私たち『僧侶』の生活もある。
 寺を寺として、僧侶を僧侶として、それぞれの信仰対象として認めているが故に『御布施』を払っているのか、それとも『世間のしきたり』で払っているのかは、きっとそれぞれであろうと思う。
 だが、以前に居た寺では、全く新しい出会い、つまり葬儀業者を通じて多くの出会いがあった。その出会いを『仏縁』として出会っていけるかどうかは私の問題だったのだが、正直『出来て居なかった』という事の方が多い。

 葬儀業者と関係している寺、いわゆる『葬式寺』では御通夜と葬儀しかしない所もあるらしい。だから困った人達が、それ以外の寺に相談に来る。現実、私もそういう出会い方をした方も居られるし。昔の罪滅ぼしではないが、忙しい中でもなんか気合が入る。
 
 だが、葬儀というセレモニーの中のあくまでも祭壇とセットでの『僧侶』という部分はないだろうか?
 祭壇に何十万円。僧侶に何十万円。等々と。

 僧侶がそこにいて仏事としての葬儀式を務める。仏事である。仏教の行事である。仏教との出会いの場である。
 はず。

 葬儀における『僧侶』が参加する事に対する支持率はどれくらいなんだろうか?
 その場合の『支持率』は、『しきたり』としての仏事なのか、それとも『信仰』なんだろうか?

 しきたり。仏事のしきたり。しきたりに反すると生活そのものを脅かされる歴史があった。
 今は、ない。親戚の長老等に文句を云われるかも知れないが、決して法を犯すわけではない。
 江戸期なら許される事もなかったキリスト教式の葬儀もあるのだろうし、その他『新興宗教』と呼ばれる団体での葬儀のやり方もある。
 それこそ『直送』というらしいが、病院から火葬場への直行もある。
 遺族外来という、本来宗教者がやっていた事も医師がやっていたりする。
 宗教者が参加せずとも、人が亡くなられた事の痛みを『癒す』事は出来る方法は幾らでもある。
 『喪』も今は『グリーフケア』と云う言葉で『ケア』出来る。

 仏教での『死』は、『苦』=『思い通りにならない』の一つである。自分の死、近親者の死を通して仏に出会う。あくまでも仏事。それはブッダ・釈尊が亡くなられた後の
 
【そこで尊者大カッサパは修行僧に告げた。
 「やめよ、友よ。悲しむな。嘆くな。友よ。まことに尊師はかつて、あらかじめこのように説かれたではないか?『すべての愛しき好む者どもとも、生別し、死別し、死後には境界を異にする。どうしてこのことがありえようか。ーーーかの生じた、存在せる、つくられた、壊滅する性質のものが、壊滅しないような、このような道理は存在しないのである』と」】(岩波『ブッダ最後の旅』171ページより)

 が象徴的である。

 仏事は『しきたり』ではない。信仰の場である。

 今日、うちのプロバイザーであるniftyのニュース欄でおもしろい記事を見つけた。
 『天皇「9時-5時勤務制」まで飛び出した宮中祭祀廃止論の大いなる誤り』というSAPIOの記事らしい。
 なにやら、「天皇の宮中祭祀を辞めよ!」という意見に対する批判であるらしい。
 私もこの記事と同意見である。天皇が宮中祭祀を辞めたら天皇ではない。記事内に

【天皇が被災地や福祉施設などを慰問したときに、手を合わせる人々がいるのは、天皇が祭祀王だからである。契約に縛られて働き、「祈り」を捨てた天皇には、もはや神秘性も尊厳性もなく、天皇から癒しを得る人はいなくなる。「祈り」抜きで天皇制は存続し得ないのである。】(http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20080502-01/3.htmより)

 とあったが全く同意見である。
 ただ、それは天皇を『天皇』として尊敬する人との関係性において初めて成り立つ。
 仏教徒は、仏教徒であり、天皇とは別宗教である。別宗教の立場の信仰の持ち主が、天皇を『天皇』として崇め奉る必要は一切ない。それは天皇に対して、違う宗教とは云え、違う宗教の宗教者に対して失礼である。

 天皇制は今現在も『しきたり』でなく、憲法である。
 憲法であるからといって、やはり違う信仰を持っている人にはおかしい。天皇とはあくまでも、宗教者であり、宗教者を崇め奉るのは、同じ信仰の持ち主でしか成り立たない。

 仏事も同じ。仏事が『しきたり』であるのは寂し過ぎる。