坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

営業

2008年05月25日 | 坊主の家計簿
 5月25日

 雑費  タバコ(昨日)    300円
     タバコ        300円
 食類  カップ麺4      392円
     焼き鮭        150円
     白飯         100円
     バナナ        100円
     寄せ豆腐       150円

 合計            1492円
 5月累計         87521円

 オカンが私名義で入っていた保険の更新時期らしく一昨日に電話あり。で、昨日は保険屋から電話があったのだが、外出していたので資料を読んでないのでなんとも言えず。
 今日、昨日届いていた資料を読む。
 「なめとんか、われ」である。
 
 確か前の更新は10年前。確かオカンから連絡があって、どうせ安い保険やと思っていたし、まあ、オカンが勝手に入りたいのやったらそれもエエやろと思って居たので、多少の反対はしたが私に関係のない話であり「まあ、エエか」と思い更新をしたのだが、今回電話で金額を聞いてビックリ。年間18万!ボケか。ボケとるにも程があるぞ。
 当然、掛け捨てではない。掛け捨てではないのだが、その全額が積み立てられるわけもない。計算したら今までで280万円も『純保険料』として取られている。
 ちなみに日本生命。あの『ニッセイのオバちゃん』でんな。確か歩合給の給料の分だけ保険料は高いし、日本生命はセパ交流戦のスポンサーでもあるらしい。あの交流戦の金がうちの実家からも出ていると考えると「殺すぞ、ボケ!」の話である。
 
 だいたい、保険会社なんぞはパチンコ屋と変わらん。パチンコ屋は儲けている。保険会社も儲けている。
 保険会社は決して互助組織なんぞではない。
 パチンコで儲ける人も居るだろうが、多くは負けている。その証拠にパチンコ屋が儲けているのだから。
 保険会社も同じであって、『万が一の時』、つまり『万が一』パチンコで勝つ様に保険がある事によって支払った保険料以上の保険金が入って来る可能性もあるのかも知れないが、そんな事は『万が一』である。多くはボロ損する。その証明で日本生命はセパ交流戦のスポンサーになっている。儲けている。
 なぜ、こういう簡単な仕組みが解らないのか、我が母親ながらブチ切れてかなり説教して「数字を読め!」と言って説得したのだが。

 とは云え、気持ちはありがたいので「ありがとう」と伝えたが、それを受け入れる事、引き継ぐ事とは別問題である。保険料を知った限り、年金生活のオカンに払わせるわけにもいかず、かといって自分で払うわけがない。私は私なりに掛け捨ての医療保険に入っているわけだし。プラス加入も考えたのだが、余りに馬鹿げた数字だったのでそんなものを引き受けるわけがない。
 親に対する感謝と、それを引き継ぐ事は別問題である。

 『わが家の宗教を知るシリーズ』というのが双葉社から出ている。私は大谷派しか持って居ないが結構お勧めである。CDも付いてるし、御参り先でも宣伝をしている。御経の現代語訳もあるし。
 けど、タイトルが『わが家の宗教を知るシリーズ』。

 非常にシンプルな話なのだが、『わが家の宗教』ってなんや?
 「日本は天皇を中心とする神の国である」みたいな話か?

 亡くなられた親族。爺ちゃん婆ちゃんだったり、父さん母さんだったり。
 その人達が受け継いで来た宗教だからといって受け継がなければならない筋合いは一切ない。
 自分の信仰として『受け継ぎたい』と思った人が受け継げばイイだけの話である。

 お寺のルーツを探ると、結構宗派を変えている所もある。当たり前の話である。『宗教』なんだから。
 宗教とは個人の自覚の元で初めて『必要』なものであり、それがなければ無用の長物である。

 日本には江戸時代という歴史があった。江戸時代には『寺請制度(檀家制度)』というのがあった。
 当時の人達がどこかの寺を菩提寺にしなければならなかった。
 同時にその寺の檀家を離れる事は許されなかった。
 例えば、あるお偉いお武家さんが、個人的に信仰したい寺があり、その寺に檀家を移りたいと云っても許される事はなかった。離れられる側の寺が嫌がったそうな(笑)。まあ、解りやすい(笑)

 今でも『離檀』で検索をうつと色々な問題があるみたいである。
 単純な話である。顧客を逃したくない『だけ』である。

 僧侶側、寺側には当然いい分がある。
 しかし、寺側の言い分に従う義務は一切ない。あり得るわけがない。信仰はあくまでも個人のものである。
 墓地が寺にあって離壇出来ないのなら墓地を引き上げればイイ。その時に『御布施』が必要ならば5円だけ入れればイイ。高額を請求されたら放っとけばイイ。放っといて勝手に御参りに行けばイイ。寺側が何の連絡もなしに墓を撤去したら告訴すればイイ。それこそ高額の慰謝料を請求すればイイ。今は江戸時代ではないのだから。封建時代ではない。
 のだが、見事なまでに封建時代の名残りを見せているのが『寺社会』である。

 真宗門徒は力強いぜ。『真宗僧侶』は他宗派の僧侶に比べて頼りないかも知れんが、真宗門徒は力強い。自覚的な仏教徒である。

【『叡山大師伝』によれば、最澄は死について、弟子たちにこんな言葉を残したという。(中略)
 (私の命はもう長くないだろう。もし私が死んだら、そのあとは、みんな喪服を着てはならない。)】
 (新谷尚紀監修『「お葬式」の日本史』51ページより)

 仏教徒に物忌みはない。
 真宗門徒だけが『門徒物忌み知らず』の伝統がある。
 単純な話である。真宗には『僧侶』『門徒』の区別が本来ないのだから。共に『門徒』であり、今でも大谷派なら『真宗同朋会運動』が展開中である。
 まあ、「お宅の宗派から離壇して大谷派に転派しませんか?」の営業トークでんな(笑)

 伝統はその伝統を守って来られた人達がいる。
 多くの生活苦の中でも伝統を受け継いで来て来られた方々が居られる。
 その人達の『気持ち』がある。感情がある。
 私は、その『気持ち』や『感情』を受け入れ感謝する事と、その伝統をそのまま引き継ぐ事とはイコールではないと感じる。

 『御陰様』
 「御陰様で私も自分の人生を歩める様になりました」
 「ありがとうございます」
 と云える人生。
 それが例えばキリスト者になって本当に「ありがとうございます」と云えるのなら、或いはいわゆる新興宗教に信仰をして「ありがとうございます」と云えるようになったら、それだけで素晴らしいじゃないか。
 
 「なんで、こんなうっとうしい仏壇があって、わけもわからん坊主に金を払ってやなぁ。。。」
 は決して『先祖供養』ではない。
 あくまでも個人の自覚である。宗教は家の宗教ではなく個人の自覚である。個人の自覚でしかない。
 あ、また、大谷派のセールストークに(笑)