5月21日
食類 のり弁 290円
海鮮2 200円
めんたいこ 199円
ブイヤベースおでん 148円
オニオンサラダ 100円
うどん玉 20円
合計 957円
5月累計 73984円
何やら、アメリカ大統領選挙の民主党での予備選挙でオマリー、ちゃうわ、オバマ氏が勝利宣言をしたそうな。
http://mainichi.jp/select/world/news/20080521ddm007030068000c.html
「これは女性差別だわ。アメリカにまだまだ女性差別が残って居る証拠だわ」
にはならない。それは両氏に対して失礼である。
そういや、大相撲の土俵に上がり込もうとした女性が居たらしい。
当然、上がれない。止められる。当たり前だ、土俵の上は『女人禁制』以前に、『観客』が上がれるわけがない。
太田大阪府前知事が大阪場所で土俵上に上がれないのは明確な女性差別だが、『観客』が大相撲の土俵上に上がれるわけがない。
最近、改めて気になる言葉がある。
数年前だったのだが、辺見庸がラジオでいわゆる戦争協力をした文学者達に対して語っていた事。明確な言葉は覚えて居ない。ただ、「彼らが強制されていたとは思えない」みたいな事。
流れなのだろう。時代の流れ。流れの中で熱狂してしまう。他者が見えなくなる。
これは最近だからよく憶えているのだが、森達也氏が講演会の中で『善意』と『悪意』について語られていた。
ブッシュ大統領がイラクを攻めた事をブッシュ大統領自身は『悪意』であると思って居ないはずである、と。
『善意』であり、例えば『人権』と云う名の大義名分でもって侵攻する。『善意』であるが故に多くの人達を犠牲にしても『仕方がない』になる。
『欧米列強からのアジア民衆の解放』であっても。
中国政府のチベット侵攻であっても。
恐らく『善意』なんだろう。
何かしら目覚めた意識でもって、その『目覚めた』と云う事を疑う事なく、疑う事が出来ないが故に直接行動に出る。
以前にある恩師から『空に沈む』という言葉を教えて頂いた。
誰かが誰かの足を踏む。
当然、踏みつけられた人は「やめてくれ」と云う。
だが、踏みつけた側が「それはあなたが『踏みつけられた』と思っているだけだ」と。
まあ、厳密にはそうなのだ。確かに『思っている』だけの話でもある。だが、その事をいいわけにして踏みつけられた人の声を聞かない。「やめてくれ」という言葉を聞けない。
禅宗では『野狐禅』とでも云うのかな?
道を求めているが故に陥りやすい危険性。
誰も悟ってないんかいやしない。
目覚めてなんかいやしない。
私にとっての目覚めた人とは
【893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(スッタニパータより)
女性解放の人達は、自らが土俵上に『上がろうとする行動』によってそれをイヤがる人達の声を聞くべきであり、日本の伝統に固執して女人禁制を守る人達は、女性解放運動家が何故「そういう行動をとろうとしたのか?」という声を聞くべきである。
「これは日本の伝統だから」という正義と
「これは人間解放だから」という正義。
共に『正義』である。
正義だから強制しあう。押し付け合う。
当然、「先に押し付けているのは向こうである」になる。
日本の伝統でもっての『女人禁制』である。そういう文化が先にあり、それに対する行動である。
今日は、疲れてたのでテレビ三昧。
コマーシャルの間は違うチャンネルを探して私にとって『都合のイイ』番組、『面白い』番組を探しまわる。
パッパ、パッパ、と、探す。じっくりと同じチャンネルで固定する事がなく。
私の『思い』に適うものを探す。
『敵』と『味方』
『都合の悪い人』と『都合のイイ人』
癒し。ストレス。思いが適わなければ疲れる。疲れるのはイヤである。
思いが適う世界を作り出したい。他者不在の世界を。
『ややこしい』
ややこしい事はイヤなのだ。決して『癒し』にはならないから。
寝よ。
食類 のり弁 290円
海鮮2 200円
めんたいこ 199円
ブイヤベースおでん 148円
オニオンサラダ 100円
うどん玉 20円
合計 957円
5月累計 73984円
何やら、アメリカ大統領選挙の民主党での予備選挙でオマリー、ちゃうわ、オバマ氏が勝利宣言をしたそうな。
http://mainichi.jp/select/world/news/20080521ddm007030068000c.html
「これは女性差別だわ。アメリカにまだまだ女性差別が残って居る証拠だわ」
にはならない。それは両氏に対して失礼である。
そういや、大相撲の土俵に上がり込もうとした女性が居たらしい。
当然、上がれない。止められる。当たり前だ、土俵の上は『女人禁制』以前に、『観客』が上がれるわけがない。
太田大阪府前知事が大阪場所で土俵上に上がれないのは明確な女性差別だが、『観客』が大相撲の土俵上に上がれるわけがない。
最近、改めて気になる言葉がある。
数年前だったのだが、辺見庸がラジオでいわゆる戦争協力をした文学者達に対して語っていた事。明確な言葉は覚えて居ない。ただ、「彼らが強制されていたとは思えない」みたいな事。
流れなのだろう。時代の流れ。流れの中で熱狂してしまう。他者が見えなくなる。
これは最近だからよく憶えているのだが、森達也氏が講演会の中で『善意』と『悪意』について語られていた。
ブッシュ大統領がイラクを攻めた事をブッシュ大統領自身は『悪意』であると思って居ないはずである、と。
『善意』であり、例えば『人権』と云う名の大義名分でもって侵攻する。『善意』であるが故に多くの人達を犠牲にしても『仕方がない』になる。
『欧米列強からのアジア民衆の解放』であっても。
中国政府のチベット侵攻であっても。
恐らく『善意』なんだろう。
何かしら目覚めた意識でもって、その『目覚めた』と云う事を疑う事なく、疑う事が出来ないが故に直接行動に出る。
以前にある恩師から『空に沈む』という言葉を教えて頂いた。
誰かが誰かの足を踏む。
当然、踏みつけられた人は「やめてくれ」と云う。
だが、踏みつけた側が「それはあなたが『踏みつけられた』と思っているだけだ」と。
まあ、厳密にはそうなのだ。確かに『思っている』だけの話でもある。だが、その事をいいわけにして踏みつけられた人の声を聞かない。「やめてくれ」という言葉を聞けない。
禅宗では『野狐禅』とでも云うのかな?
道を求めているが故に陥りやすい危険性。
誰も悟ってないんかいやしない。
目覚めてなんかいやしない。
私にとっての目覚めた人とは
【893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(スッタニパータより)
女性解放の人達は、自らが土俵上に『上がろうとする行動』によってそれをイヤがる人達の声を聞くべきであり、日本の伝統に固執して女人禁制を守る人達は、女性解放運動家が何故「そういう行動をとろうとしたのか?」という声を聞くべきである。
「これは日本の伝統だから」という正義と
「これは人間解放だから」という正義。
共に『正義』である。
正義だから強制しあう。押し付け合う。
当然、「先に押し付けているのは向こうである」になる。
日本の伝統でもっての『女人禁制』である。そういう文化が先にあり、それに対する行動である。
今日は、疲れてたのでテレビ三昧。
コマーシャルの間は違うチャンネルを探して私にとって『都合のイイ』番組、『面白い』番組を探しまわる。
パッパ、パッパ、と、探す。じっくりと同じチャンネルで固定する事がなく。
私の『思い』に適うものを探す。
『敵』と『味方』
『都合の悪い人』と『都合のイイ人』
癒し。ストレス。思いが適わなければ疲れる。疲れるのはイヤである。
思いが適う世界を作り出したい。他者不在の世界を。
『ややこしい』
ややこしい事はイヤなのだ。決して『癒し』にはならないから。
寝よ。