坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

背脂中年

2008年05月09日 | 坊主の家計簿
 5月9日

 雑費  免許更新        3800円
 外食  チャーシューメン     850円
 食類  寿司           200円
     鯖竜田揚げ        100円

 合計              4950円
 5月累計           39083円

 喉が痛いよぉ。。。鼻水も出るし、クシャミもタマに出る。
 これは。。。トンコツが足らんからだ。背脂が足らんからだ、ニンニクが足らんからだ。
 と云う事で、大量の背脂入りトンコツラーメン、脂ギトギトのラーメンを食べに行く。ニンニクもぎっちょり搾ってやな、キムチも入れて、チャーシューメンにしたからこれで大丈夫だ。
 「まさか」とは思うが、一応風邪薬も飲んだし、多分、これで大丈夫のはずである。

 しゃて、警察に行く。免許の更新時期でんねん。
 手数料が合計3800円。
 更新手数料が2100円で、講習手数料が1700円。
 け!ぼったくりやがって。お前らが腰にピストルぶら下げてなかったら誰が払うか、っちゅうねん。まあ、撃たれるとイヤなのでこの場を借りて憂さ晴らし。

 免許の更新。やった人は知っているだろうが、簡単なもの。写真もこっちが持って行くし、向こうはそれをカードにするだけ。受付の警官の「いらっしゃいませ」も「ありがとうございます」の声もなく、視力検査をして、書類に書き込むだけの話。これが2100円。どっからどう考えたらこの『2100円』という数字が出てくるのか知らんが、原価率はナンボやねん?人件費?警官って公務員やったよな。公務員の手数料としては無茶苦茶高額ではないか?
 運転免許人口はざっと8000万人。平均4年で更新するとして、毎年2000万人の人が免許の更新をしていると仮定する。
 2000万×2100円=420億。ざっと、400億。ボロい話や。ボロい商売や。
 
 免許講習手数料は私の場合は1700円。ちなみに2時間。あの下らん映画を見せられ、多分、下らん話もあるのかな?で、1700円。
 講習手数料は様々だから、仮に平均1000円としとく。
 1000円×2000万。200億。
 講習手数料の中には、あのほぼ読む事のない資料代等も入っているのだろう。恐らく、経費として資料代や映画製作費等が含まれているのだろう。会場は市民会館とかだから会場費にそれ程かかるとは思えないし。それでも、ボロいのぉ。。。あの資料を作る業者の選択はどうなっているのだ?天下り先がやはりカラんでいるのか?
 仮に合計年間約600億の利権。
 まあ、色々な名目でもって計上されているのだろうが。

 ちなみにNPOでも同じ。『非営利団体』とかいうが、ちゃんと『本部事務費』等で当然の事人件費等が計上されているはずである。で、人件費がナンボかまでは余程詳しい人でない限り解らん。
 人件費。え~。。。平均年収がいくらか知らんが、NPO、まあ、色々とあるのだろうが、そのNPOの人件費が年収300万を越えてたら、どこが『非営利団体』でんねん。立派な営利団体でんがな。 
 『非営利』『営利』という名目があるにしろ、年収300万も稼げたら立派なエエ仕事とちゃうんけ?ん?もっと稼いでいる人もいるのかも知らんが、年収300万ってかなりエエ数字やと思うぞ。
 
 ちなみにもう潰れたはずだが、『NPO』のライブハウスがあった。行くと、まあ、よくあるライブハウス。タマに『NPO的』なイベントをやっているぐらいで。利用条件を見てみてもちゃんとチケットノルマもあるし、何が『NPO』なのかがよく解らん。NPO的だったのは「サービスがなっとらん!」という事であって、つまり商売を舐めとる。しかも『NPO』と云う事で思考停止してしまう人がいるから、その辺の人と一緒に商売をやっていたのだろうが、あんな商売を舐めたサービスなら他の店ならとっくに潰れている。人間を舐めくさりやがって。。。

 警官は自分達がやっている事を「本当に正しい事」かどうかを疑う事が出来るのだろうか?免許の更新手数料だけで2100円である。
 
 『NPO』。様々な活動団体があるので一概に云えないし、それに関わる様々な人達(これは警官もだが)が居てるので一概に決めつける事は出来ないが、個別の問題として、自分達がやっている事を「本当に正しい事」かどうかを疑える事が出来るのだろうか?
 
 タマタマ『警察』と『NPO』を出したが、なんでも同じ。
 当然、仕事以外でも。
 いや、仕事以外の事の方が大きいだろう。

 例えば胡錦濤中国国家主席が大阪に来ているが、明日、きっと大阪や奈良では「フリーチベット!」の人達が声を上げるであろう。それに関わる人達が個別の問題として自分達の行為を「本当に正しい事」かどうかを疑う事が出来るのだろうか?
 当然、個別の人達の問題である。だが、諸々の情報を読んでいる限りにおいては、疑う事が出来ていない気がするのだが。

 例えば、昨日紹介した記事内にこういう言葉があった。

 【「私たちは事前に学生課に申請して抗議活動をしている。メガホンを使うと授業のじゃまになるのでといわれて、肉声で『フリーチベット』を叫びに来た。それなのに警察側が拡声器で『下がってください』と言って授業のじゃまをしている。早稲田出身者として許せない」と憤っていた。】(http://news.nifty.com/cs/headline/detail/fuji-320080508015/1.htmより)
 
 警官の仕事は治安維持であり、拡声器を使ったのは多くの参加者が来られたから『だけ』の気がするのだが。。。多くの参加者が肉声で抗議の声を上げる。肉声であっても参加者が多ければかなりな『声』になる。警察の仕事は治安維持であるから当然拡声器でもって『声をデカクして』参加者全員に警官の声を伝えなければならない。それが仕事だし。

 正義の味方は、「俺様のやる事を邪魔するな」と云う事なんだろう。小泉元総理が解りやすいな。「私に反対する人が抵抗勢力なんです」やったっけ?あれだろう。
 ああいう単純さがモテはやされるのは、小泉氏が証明した様なもの。そして多くの支持を集めた。

 正義。正義である限り、自分が本当に正しい事をやっているのかどうかを疑えない。
 疑えないからが故に、「邪魔をする」になる。意見が違う、立場が違うが「邪魔をする」になる。しかも、正義で慢心しているが故に『敵』に、あるいは『目覚めさせなければならない対象の人』になる。まあ、中国人民解放軍みたいなもんでんな。前の日本のアジア支配も『解放』だったし。

 女性解放でも同じ。
 解放には宣言というものがあるからそれに立ち返る事が出来るのだろうが、女性解放運動ってどうなのだろうか?
 例えば、性犯罪は男女関係なくである。女性によって行われる性犯罪もある。また、『売春』『買春』という商売について私は「両者が合意してたら好きにしたらエエやん」の立場であるが、基本はダメな行為なんだろう。その『犯罪』は男女両方の共犯である。どちらが悪いというわけではない。両方が悪いのである。どちらか『だけ』が悪ければ問題なんだが、両方が悪いのなら当たり前である。共犯なんだから。
 それを、女性だけが悪い、と、してしまうのは偏見・差別であるし、同様に男性だけが悪い、としてしまうのも偏見・差別でしかない。
 女性解放の名目の中で、男性に対する差別文章をタマに見る。エエ加減に裁判に訴えようかとも思うのだが、裁判って面倒やしなぁ。。。
 「女性は○○である」というのは、例えば「女性は政治家には向いていない」とは単なる差別である。
 同様に「男性は暴力的である」も差別である。「何故、男性は性犯罪を好むのか?」なら、私も『男性』だし、私が性犯罪を好むかどうかを他人に決めつけられる筋合いは一切ない。私が性犯罪を犯した時に、「お前は」と云うのなら解るが、誰か、どっかの『男性』が犯した犯罪を同じ『男性』であるからという事で暴言を吐かれる筋合いはない。それは「女性は政治に向かない」という偏見・差別の暴言と同じである。自分がやられてイヤだった言葉を、何故平気で吐けるのかを問い直さない限り、決して『解放』等ではあり得ない。
 女性解放とはその辺も含めた『解放運動』なんだろう。
 解放とはエゴではない。確かにエゴすらも出せない状況下にあった歴史があったにしろ、それは『男性中心社会のエゴ』であったのならば、エゴそのものを問わない限り、単なるお姫様のプライドだけの話である。そんなものは解放運動でもなんでもない。
 
 自分がやっている行為が「本当に正しい事」かどうかを問う作業。
 「本当にそれでいいのか?」という声。

 問われる事は「間違って居る」から。
 これは最近の癒しブームにも通じると思うのだが、ストレス満腹状態だから、決して自分は問われたくない。問われる存在でなく、問う側、つまり、『正しい側』の座に座り続けようとする。
 『正しい側』だから、反対する人が『抵抗勢力』になる。悪になる。自分は善で、意見が違うと悪である。

 そんなものなのだ。反射的にそう感じてしまう様に元々なっていると私は感じる。私自身がそうだから。
 反射的に、「拳銃ぶら下げてるからいうて偉そうにするなよ、ボケ」になる。
 意見が違うと、「こいつ、解ってないなぁ。。。」になる。
 意見が違うだけの話なのだ。立場が違うだけの話なのだ。
 それを反射的に『悪』にして、『下』に見てしまう。
 立場が違う事を、単に立場が違う事だけの話を、差別してしまう。
 「アホである」「頭が悪い」等々、もう、私の専売特許みたいな話である。

 明日で40になる。厳密になら、これを書いている今現在、日付が変わったので40歳である。立派な中年である。
 40。人生80年と仮定したら約半分。
 40年の人生経験を振り回す。

 歳と共に頭が固くなって来る。頭が回らん。
 当然、頑固になる。
 40年の人生経験を振り回しているのだろう、行くのだろう。
 所詮、でも、私にとってはかけがいのない人生。でも、所詮、私だけの人生経験である。多くの人達に御世話になっているが、基本は私だけの人生経験。誰にも代える事の出来ない人生経験。
 所詮、そんな経験や、ある特定のものの見方だけでもって、人を斬り裁く。

 40年の人生経験。
 日本では前も書いたが『目上』=『年上』という文化もある。
 ますます偉そうになって行く。人生経験を振り回して人を斬り裁き、人を差別する。し続けて行く事だろう。その事だけは間違いない。きっと今まで以上に『40』という年齢でもって、『中年』という言葉でもって、人を斬り裁いて行く事だろう。
 人生経験を正義の座に居座る、慢心する道具に使う事であろう。その事だけは間違いない。

 「本当にそれでいいのか?」

 様々な経験や、知識でもって慢心する。『正義』という言葉でもって、『正義の座』でもって慢心する。
 老化により頭は固くなる。
 だから、尚更『他者』を『他者』として見出せるかどうか、私自身の在り方を「本当にそれでいいのか?」と問われ続ける事。
 転がる石に苔はつかない。
 転がる意思に虚仮はつかない。

 40。増々、ロックンロールが問われて来る。
 あ、仏教者やった(笑)
 空の行者やった。念仏者やった。
 南無阿弥陀仏が増々問われて来る40歳の誕生日。