坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『執著する存在』としての平等

2006年10月01日 | 坊主の家計簿
 10月1日

 食類   緑のたぬき2      138円
      茹で枝豆         92円 
      黒胡麻ごぼうサラダ   105円
      ヒレカツ巻き寿司    146円
 外食   ラーメン        189円

 合計               670円
 10月累計            670円

 ♪雨が降っていたわ とっても寒かった
  (ヤプーズ『大天使のように』より)
 ああ、昨日布団出しといて正解やったな。タオルケットではもう無理でっせ。

 今日は、この辺り一帯は祭の準備。『試験引き』と云う、約一年振りに地車を引いてイイ日。
 朝から雨だったし、昼前から徐々に本降りに成って来たのだが、まあ、運動会が中止になって阪神戦が中止になっても地車だけは台風が来ようがやるらしい。
 のはエエのだが、昼からの試験引きを注意して、危険地帯は午前中に回っていたのだが、読みが甘かった。。。
 一軒、思いっきりドボン。
 まあ、ギリギリセーフではあったのだが、お参り先に「すいません。今日試験引きなんですね、ちょっと急がしてもらいます」と若干急ぎ気味で読経して、走って車を停めてる所まで戻ったら「もうすぐ地車が通るから急いで車どけてんか。悪いなぁ」と。
 あれが本番なら今頃私は関西空港に埋められているだろう。
 他も通行規制しまくりやし、いや、ホンマ仕事になりまへんわ。

 と云う事で祭の本番である7日、8日は休みなのだ。
 休みなんだが、都合の悪いことに所属寺の報恩講というデッカイ法要が毎年だいたいその辺の日にあって、今年は2日ともバッチシ被さってもうてやな、「いや仕事で行けまへんねん」という言い訳もきかんしなぁ。まあ、エエねんけどな。丁度、都合がエエとも言えるねんけどな。。。

 来年は親鸞・流罪800年。働いて居る寺と所属寺の両方で流罪800年法要をやるらしい。というか、大阪では色んな寺で結構やるらしい。他は知らん。

【そこには、善根(ぜんこん)を積むことはおろか、生きのびるためにはたとえ悪事とされていることでも、あえて行わなければならない悲しさをかかえた人々の生活がありました。】(『宗祖親鸞聖人 第七章民衆にかえる』より

【民衆としての人間業の大地に、宗祖もまた同じくかえってゆかれたということなのです。】(宮城しずか『宗祖親鸞聖人下巻』94ページより)

【みずからの信心において自己完結してしまい、みずからの信心の自明性に自己満足してしまっていたことを、越後という風土ののもつ苛酷さ、そこに生きる人々の生活の現実のなかで、徹底して思い知らされてゆかれたのです。】(宮城しずか『宗祖親鸞聖人下巻』93ページより)

 人は『モノ』ではない。男だろうが、女だろうが、ホモだろうが、レズだろうが、また能力や才能に関係なく、それぞれがそれぞれとして尊いいのちではないのか?
 んが、それぞれの立場で『モノ化』する。別に男だけが女を『モノ化』しているわけではない。また、金持ちだけが貧乏人を『モノ化』しているわけではない。
 『世間』を第一義にするのなら、自分も含めた全ての命ある存在を『モノ化』しているわけだし、『世間』を無視して『自分だけが尊い』なら、自分以外の存在を『モノ化』しているに過ぎない。
 それがイヤだから『視ざる、言わざる、聞かざる』。

 あるいは、自らの行動に酔う。当然『酔う』事は宗教の堕落だが、
 「おお!人間っちゅうのにはこんな煩悩もあってんなぁ~。」と気づく事も出来る。そういう煩悩は、余り好きな言い方ではないが『優しさに転化』出来るのではないだろうか?
 例えば仮に「ボランティアや、社会活動をすれば慢心するだけではないか」なら、慢心出来ないだけの話であり、いや、その事を言い訳に自分が『慢心していない』という証明に使いたいだけの話であり、ボランティアや社会活動をしている人を見下す事によって慢心しているだけの話である。
 被差別の現場、いや、生活現場というのは、常に生々しい煩悩の現場であり、刺激的であり、魅力的である。『生』が『いのち』が満ち満ちている。怒り、腹立ち、嫉み等が満ち満ちている。
 「私は弱者の立場に立っている!」でも。
 「私は社会正義に生きている!」でも。
 それ等は当然慢心であり、間違いであり、その中で例えば機動隊を『モノ化』してしまう事もある。それは『罪』だ。
 でも、そういう罪を犯さずには生きていれないのが『執著する存在』としての人間であり、祈らざるを得ない人間存在ではないのか。
 変な話だが、煩悩や罪を自覚出来る『状態』だけが、自他を包み込む『優しさ』に触れる『時』ではないのか?
 また、煩悩や罪が多い程

【罪障功徳の体となる
 こおりとみずのごとくにて
 こおりおおきにみずおおし
 さわりおおきに徳おおし 】
 (親鸞)

 ではないのか?
 被差別者ですら、自分が慢心したい為に利用している、「その人達と出会った」等と自慢し、慢心し、その場から「何もしないやつら」と斬り裁きしてしまい、「私は被差別者と共に生きている」とブランド化し、行動を誇る。誇らずには生きていられない。そういう『執著する存在』ではないのか?
 それは一直線さまざまなブランドによって自らを立てようとする人達と同じ『執著する存在』ではないのか?

 天皇も『執著する存在』である。
 如何なる素晴らしい活動をした人でも『執著する存在』である。
 男も『執著する存在』である。何が『嫉妬』じゃ。寝言は。。。あ、寝る時間や。