坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『ありかた』

2006年08月30日 | 坊主の家計簿
 8月30日

 雑費   タバコ       300円
 外食   かき揚げそば    326円
 
 合計             626円
 8月累計        135794円

 早いのだが、飲みに行くので。。。
 だって、だって、明日休みだも~~~ん!

 大谷派は共産党ではない。当たり前だが。
 なので、例えば荒川庸生氏が「お前は念仏者だろう。だったら共産党に投票しろ」と云われたら断固拒否する。
 
 このニュースソースが確かなら荒川庸生氏がコメントしている【「宗教者も政治問題や社会問題に無関心ではおられません。私も微力ながら、理想の世界の実現に関わっていきたい」】には全くの同意見である。しかし【「共産党の政策を支持し、その活動に出来る範囲での協力をし」】はあくまでも荒川庸生氏の選択肢であり、荒川庸生氏が生きてこられた中での環境等もある。それは私と同じではない。

 私は「戦争に協力する事は念仏者としておかしい」と感じる。だが、それは「非戦平和運動をする事が念仏者である」とは直接つながらない。
 当然ながら「非戦平和運動をしない人は念仏者ではない」とは言えない。言える権利など私は持ち合わせていない。ましてや、ある特定の団体や、集会、デモ等に参加しない事が「念仏者でない」等とは絶対に言えない。だが、そういう声もたまに聞く。
 それは『人間のやることだから』。当然、慢心も出て来るわな。また限界もある。

 願いは同じでも『ありかた』は当然違う。何かの正解などあり得ない。
 だが、受け入れられやすい、『解りやすい』形のありかたはウケる。ウケる分だけ危ない。同じ願いをもっていながらも『ありかた』が違うという事で否定する。「何もしないヤツ等」にする。
 その中に能力主義も潜んではいないだろうか?『解りやすい』『かっこいい』等々。またそれらの事に憧れていないだろうか?そして、その能力主義から見下していないだろうか?『能力主義』と『願い』をゴッチャにしていないだろうか?能力のない人達を『願いを忘れた人達』と、あるいは『願いを知らない人達』にしていないだろうか?

 私は荒川庸生氏と願いは同じくするが、共産党は批判する。共産党に結構投票してるが批判する。また、荒川庸生氏には同じ大谷派僧侶として「『教え』も共産党の配布物と同じ位熱心に配布してくれよなぁ。。。」と愚痴をこぼす。っちゅうか、ああいう人達って、結構『教え』に対しても熱心な事を知ってるが。


 さっき某ブログで恩師の一人である菱木氏の講演のノートを読ませて頂いたのだが、浄土への道を歩む人に対して【「それはただの人権思想だ」と呼び返す。群賊悪獣。聖道門。魔。】とあるが、だったらそういう声をかけてくれた人と対話すればイイだけの話ではないのか?

 『呼び返される』のなら、それは所詮そんな『軽い』ものだったんだろう。批判されたくない『側』に立ちたいが為のものでしかなかったのではないのか?別に他人様、世間様から褒められたくて『願い』を歩んでるわけじゃないだろうに。

 で、そういう自分に気づく事が出来た(気づかされた)のなら、また歩めばイイだけの話だ。

 【『華厳経』(入法界品)の偈に云うがごとし。もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せん、と。已上】(親鸞『顕浄土真実教行証文類六』より