8月14日
雑費 エビオス錠 1780円
発泡酒 175円
大麦若葉青汁30P 880円
ペットコーヒー 98円
かまぼこ 68円
薄揚げ 1円
外食 唐揚げ定食 750円
合計 3752円
8月累計 56758円
15。。。
ああ、なんて甘美な響きなんだ。よってもう一度
15。。。
よっしゃ!明日行ったら(葬儀が入らなければ)明後日の今頃は今治で『焼き豚玉子飯→焼き鳥』後のビジネスホテルじゃ!
と、云う事で今日も大盛り中華定食屋へ。今治が待ちきれずにどうしても熱々肉汁ほとばしる唐揚げが食べたくなったのだ。
ついでに、昨日、今日と、中華定食屋に置いてある週刊誌を読む。靖国特集やな。
テレビでも今日はなんか戦争&靖国ものが多かった。っちゅうか、公文筆ペン練習とか雑用かましながらなのでちゃんと観れてないのだが、チャンネルだけは戦争&靖国もの。
真宗仏教には『お盆』はない。理由は単純明解で、例えば『いわゆるお盆』なら戻って来る霊魂がない。もし仮に戻って来たならば葬儀の御布施を返さんとあかん話だ。
また、『仏説盂蘭盆会経』のお盆でも同じ。餓鬼道に先祖が落ちているはずがない。とは云え、今現在餓鬼道なり地獄に堕ちている人達と「共に助かって行こう」や、あるいは『お盆』と云う機会を通じて諸々沢山の人達の願いによって今の私たちが生かされていると云う確認の場にはなる。爺ちゃん婆ちゃん達に想いを馳せる事は大事だ。
さっきまでやってた筑紫のニュース23のスタジオセットで鳥居があった。
こら、筑紫。テメーには朝日ジャーナル時代から色々恩義もあるけどやな、テメーの人の言う事を聞いてないみたいな相づちと、今日の鳥居のセットはあかんぞ。
鳥居とは神道にとっては大事な宗教のものではないか。そんな結界を意味する神道にとっては大事なものをスタジオのセットに使って靖国問題を論じるとは、ちと宗教をなめとらんか?私は仏教徒なので神道とは全く別の宗教を信じているが、それでも、っちゅうか、それが故に神道を信じる人達を別に否定しない。批判はするが否定は出来ない。神社は私にとっては宗教施設ではない。なので私にとって宗教施設ではないので強制されて「手を合わせろ!」等と云われたら別だが、それ以外は私にとっての宗教施設でないだけであって、他の人達にとっては大事な宗教施設なんだろうし、それぐらいの敬意ははらう。まあ、柏手は打たんが。
なので、鳥居をスタジオのセットにする事はおかしい。現場で誰も反対しなかったのだろうか?
日本人の宗教意識。
結局『靖国神社』の問題で問われているのはそういう事だと私は感じる。
例えば仏教徒にとって靖国神社など関係ない。あれはあくまで『国家神道』の時代であったにせよ、今現在は『神社』なんだし。当然、遺族感情として「勝手に祀られてもらっては困る」と云うのも当然ありだ。違う宗教なんだし。
なんか、その辺の日本人の宗教意識の曖昧さが非常に問われている気がしてならない。
19時からNHKで『どうして人は戦争をするの?』と云う番組をやってた。まあ、正式には『いま考える2006夏(1)』らしい。
「どうして人は戦争をするの?」
それは戦争が好きだからだ。
私は高速道路が好きです
私はスモッグで汚れた風が好きです
私は魚の死んでる海が好きです
私はごみでいっぱいの町が好きです
殺人、詐欺、自動車事故が好き
そして 何より好きなのは
多数の人が
涙を流す
血を流す
戦争が大好きです
餓えと
寒さの中で
戦って死んでいく姿を見ると
背中がぞくぞくするほど
楽しくなります
毎日毎日
大人が
子供が
生まれたばかりの赤ん坊が
次から次へと
死んでいるかと思うと
心がゆったりします
歴史を歴史と感じ
過去を過去として思う
無感情な
時の流れに、自分自身に
たまらなく喜びを感じます
こんな私を助けて下さい
誰か助けて下さい
たった一粒でもいいのです
こんな私に
涙というものを与えてください
たった一瞬でもいいのです
こんな私に
尊さというものを与えて下さい
私の名前は
人間といいます
(関本理恵『一番好きなもの』)
いや、「あんたの名前は関本理恵やろ」と突っ込みを入れたくなるのだが、っちゅうか、やはり『私の名前は 人間といいます』と云うのは逃げだし。
そういう部分でいうならば、先に私が書いた『日本人の宗教意識』も逃げだな。やはり『私自身の宗教意識』にするべきであった。
とは云え、この詩は大好きな詩である。
仏教では『苦集滅道』と云うのを大事にする。っちゅうか、根幹なんだが。。。
自分がどういう存在であるのかを見つめる事無く問題の解決などあり得ない。
親鸞なら
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
であり、
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
などの、激しい自分自身を直視する視点であっただろう。
数年前より『青年将校』が怖い。まあ、私が勝手に『青年将校』と呼んでいるだけであって、私自身も『青年』気分が抜けきらないので『青年将校』と呼んでいるのだが。
つるつる。心の綺麗な所しか見ない。いや、正しくは『見れない』のかも知れない。
いわゆる解りやすいボランティア活動に積極的に参加して、アジア・アフリカなどの発展途上国が好きだったりする。沖縄・アイヌ民族が好きだったりする。アジア・インド系のシャツを着て『とば』をアテに泡盛を飲む。好きな音楽はソウルフラワーユニオンだったりする。被差別、在日、沖縄、アイヌ、障害者等と云うキーワードに敏感に反応する。あるいは『寄せ場』、大阪なら釜ヶ崎とかに出入りしてボランティア活動したり、飲みに行ったりする。
俺やんけ。。。
なのだが、よって批判する。
それで『罪』を逃れようとする。「俺はやってる」と慢心する。
それは他との比較。
「俺はお参りだけしてる坊主と違う!」という事。
で、戦争、差別を自分の問題にしない。
【「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」精神は「たすけとぐることきわめてありがたし」であり、間にあわぬということです。それは『たすける』身としての成就を求めているけれども、『たすけられるべき自信』の成就を忘れているということでありましょう。
いわゆるヒューマニズムの陥し穴がそこにあると申せましょう。】(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』123ページより)
つるつるの『青年将校』。当然靖国神社総理公式参拝に反対する。
しかし、直感だが、次の戦争準備を始めているのも『青年将校』の気がしてならない。
『ネオ優生思想』と、私は感じる。やっぱし、ある種、っちゅうか、戦後民主主義の中で『善』である事をしてるわけだし、なら当然「私が責められる必要はない」になるんだし。それは慚愧の忘却でしかない。
しかし、私は決して非戦、反差別を辞めようとは思わない。辞めたら慚愧も出来ないし。両方とも仏道を歩む中での事ではないのか?
「みんなと一緒に生きたい!」と願う道を歩むが故に「全くそんな事を願っていない自分自身」を見出す事が出来るのだし。
雑費 エビオス錠 1780円
発泡酒 175円
大麦若葉青汁30P 880円
ペットコーヒー 98円
かまぼこ 68円
薄揚げ 1円
外食 唐揚げ定食 750円
合計 3752円
8月累計 56758円
15。。。
ああ、なんて甘美な響きなんだ。よってもう一度
15。。。
よっしゃ!明日行ったら(葬儀が入らなければ)明後日の今頃は今治で『焼き豚玉子飯→焼き鳥』後のビジネスホテルじゃ!
と、云う事で今日も大盛り中華定食屋へ。今治が待ちきれずにどうしても熱々肉汁ほとばしる唐揚げが食べたくなったのだ。
ついでに、昨日、今日と、中華定食屋に置いてある週刊誌を読む。靖国特集やな。
テレビでも今日はなんか戦争&靖国ものが多かった。っちゅうか、公文筆ペン練習とか雑用かましながらなのでちゃんと観れてないのだが、チャンネルだけは戦争&靖国もの。
真宗仏教には『お盆』はない。理由は単純明解で、例えば『いわゆるお盆』なら戻って来る霊魂がない。もし仮に戻って来たならば葬儀の御布施を返さんとあかん話だ。
また、『仏説盂蘭盆会経』のお盆でも同じ。餓鬼道に先祖が落ちているはずがない。とは云え、今現在餓鬼道なり地獄に堕ちている人達と「共に助かって行こう」や、あるいは『お盆』と云う機会を通じて諸々沢山の人達の願いによって今の私たちが生かされていると云う確認の場にはなる。爺ちゃん婆ちゃん達に想いを馳せる事は大事だ。
さっきまでやってた筑紫のニュース23のスタジオセットで鳥居があった。
こら、筑紫。テメーには朝日ジャーナル時代から色々恩義もあるけどやな、テメーの人の言う事を聞いてないみたいな相づちと、今日の鳥居のセットはあかんぞ。
鳥居とは神道にとっては大事な宗教のものではないか。そんな結界を意味する神道にとっては大事なものをスタジオのセットに使って靖国問題を論じるとは、ちと宗教をなめとらんか?私は仏教徒なので神道とは全く別の宗教を信じているが、それでも、っちゅうか、それが故に神道を信じる人達を別に否定しない。批判はするが否定は出来ない。神社は私にとっては宗教施設ではない。なので私にとって宗教施設ではないので強制されて「手を合わせろ!」等と云われたら別だが、それ以外は私にとっての宗教施設でないだけであって、他の人達にとっては大事な宗教施設なんだろうし、それぐらいの敬意ははらう。まあ、柏手は打たんが。
なので、鳥居をスタジオのセットにする事はおかしい。現場で誰も反対しなかったのだろうか?
日本人の宗教意識。
結局『靖国神社』の問題で問われているのはそういう事だと私は感じる。
例えば仏教徒にとって靖国神社など関係ない。あれはあくまで『国家神道』の時代であったにせよ、今現在は『神社』なんだし。当然、遺族感情として「勝手に祀られてもらっては困る」と云うのも当然ありだ。違う宗教なんだし。
なんか、その辺の日本人の宗教意識の曖昧さが非常に問われている気がしてならない。
19時からNHKで『どうして人は戦争をするの?』と云う番組をやってた。まあ、正式には『いま考える2006夏(1)』らしい。
「どうして人は戦争をするの?」
それは戦争が好きだからだ。
私は高速道路が好きです
私はスモッグで汚れた風が好きです
私は魚の死んでる海が好きです
私はごみでいっぱいの町が好きです
殺人、詐欺、自動車事故が好き
そして 何より好きなのは
多数の人が
涙を流す
血を流す
戦争が大好きです
餓えと
寒さの中で
戦って死んでいく姿を見ると
背中がぞくぞくするほど
楽しくなります
毎日毎日
大人が
子供が
生まれたばかりの赤ん坊が
次から次へと
死んでいるかと思うと
心がゆったりします
歴史を歴史と感じ
過去を過去として思う
無感情な
時の流れに、自分自身に
たまらなく喜びを感じます
こんな私を助けて下さい
誰か助けて下さい
たった一粒でもいいのです
こんな私に
涙というものを与えてください
たった一瞬でもいいのです
こんな私に
尊さというものを与えて下さい
私の名前は
人間といいます
(関本理恵『一番好きなもの』)
いや、「あんたの名前は関本理恵やろ」と突っ込みを入れたくなるのだが、っちゅうか、やはり『私の名前は 人間といいます』と云うのは逃げだし。
そういう部分でいうならば、先に私が書いた『日本人の宗教意識』も逃げだな。やはり『私自身の宗教意識』にするべきであった。
とは云え、この詩は大好きな詩である。
仏教では『苦集滅道』と云うのを大事にする。っちゅうか、根幹なんだが。。。
自分がどういう存在であるのかを見つめる事無く問題の解決などあり得ない。
親鸞なら
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
であり、
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
などの、激しい自分自身を直視する視点であっただろう。
数年前より『青年将校』が怖い。まあ、私が勝手に『青年将校』と呼んでいるだけであって、私自身も『青年』気分が抜けきらないので『青年将校』と呼んでいるのだが。
つるつる。心の綺麗な所しか見ない。いや、正しくは『見れない』のかも知れない。
いわゆる解りやすいボランティア活動に積極的に参加して、アジア・アフリカなどの発展途上国が好きだったりする。沖縄・アイヌ民族が好きだったりする。アジア・インド系のシャツを着て『とば』をアテに泡盛を飲む。好きな音楽はソウルフラワーユニオンだったりする。被差別、在日、沖縄、アイヌ、障害者等と云うキーワードに敏感に反応する。あるいは『寄せ場』、大阪なら釜ヶ崎とかに出入りしてボランティア活動したり、飲みに行ったりする。
俺やんけ。。。
なのだが、よって批判する。
それで『罪』を逃れようとする。「俺はやってる」と慢心する。
それは他との比較。
「俺はお参りだけしてる坊主と違う!」という事。
で、戦争、差別を自分の問題にしない。
【「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」精神は「たすけとぐることきわめてありがたし」であり、間にあわぬということです。それは『たすける』身としての成就を求めているけれども、『たすけられるべき自信』の成就を忘れているということでありましょう。
いわゆるヒューマニズムの陥し穴がそこにあると申せましょう。】(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』123ページより)
つるつるの『青年将校』。当然靖国神社総理公式参拝に反対する。
しかし、直感だが、次の戦争準備を始めているのも『青年将校』の気がしてならない。
『ネオ優生思想』と、私は感じる。やっぱし、ある種、っちゅうか、戦後民主主義の中で『善』である事をしてるわけだし、なら当然「私が責められる必要はない」になるんだし。それは慚愧の忘却でしかない。
しかし、私は決して非戦、反差別を辞めようとは思わない。辞めたら慚愧も出来ないし。両方とも仏道を歩む中での事ではないのか?
「みんなと一緒に生きたい!」と願う道を歩むが故に「全くそんな事を願っていない自分自身」を見出す事が出来るのだし。