坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『無名の人の存在感』

2006年08月12日 | 坊主の家計簿
 8月12日

 外食   餃子中華丼            609円
 本    森達也『放送禁止歌』       680円
 食類   そば焼酎            1598円
      寄せ豆腐             105円
      水茄子ヌカ漬け          200円
      菜の花からしあえ         128円
      豚肉               299円
      発泡酒              175円

 合計             3794円
 8月累計          53006円

 仕事が終わって、3時のおやつっちゅうか、遅めの昼飯。なんか無性に王将の餃子が食べたかったので王将へ。毎度かわらずの王将餃子の味。
 で、諸々買いものしつつ、今日はサボリモードに決定。帰りに本屋に寄ったら『放送禁止歌』が売ってたのでゲット。面白かったので一気読み。
 三上寛の『夢は夜ひらく』が放送禁止だったとは知らなかった。。。
  ♪子供を背負った泥棒よ
   キャベツひとつ盗むのに
   涙はいらないぜ
 が、「犯罪を誘発する」とかで放送禁止になったのだろうか?
 っちゅうか、まあ、
  ♪四畳半のアパートで
   それでも毎日やるものは
   ヌード写真に飛び散った
   カルピスふくことよ
 辺りが問題だったのだろう。

 頭脳警察の『世界革命戦争宣言』は放送禁止だったとは知ってたが、当然放送禁止だし、確かこれは幻のファーストに収録されていた曲だったので聴いた事は無かったのだが、
  ♪君達にブラック・パンサーを殺しゲットーを戦争で押しつぶす権利があるなら
   我々にもニクソン 佐藤 キーシンガー ドゴールを殺し
   ペンタゴン 防衛庁 警視庁
   君達の家々を爆弾で破壊する権利がある
 と云う平和な歌詞だとは知らなかった。
 これは無茶苦茶『平和』な歌詞である。何故なら、それこそが当時の言葉でなら『権力』が望んでいた事であり、正々堂々と弾圧出来るわけだし。旗をつけた竿で武力闘争をするならば、『権力』だって表立って弾圧出来ない。あくまでも市民の抗議行動だし。しかし、『爆弾』なら話は別だろう。で、当然武力なら『権力』の方が持ってるわけだし。しかも、こつこつとピース缶で爆弾なんぞ造らなくても公然とした兵器がある。射程距離がたかが5キロ程の命中率が悪いロケットなんぞは戊辰戦争でもどれだけ通用した事か。平和な時代だったんだ、と、再確認する。
 と、戦後民主主義の『よゐこ』だった全共闘にイヤミ。
 で、改めて共産党の政治路線は正解だったと感じる。しかし、だったら政権とるような勢いを取らんか。社民党が民主党と協力するなんぞという話も聞いたが、共産党は何をしとるねん。共産、社民の両党が中心になって左派政党をなぜ作らん。
 
 あ、話が。。。

 『放送禁止歌』は優れたドキュメント本だ。
 マスコミ内部でもあまり知られていなかったらしい(森達也自身も知らなかったらしい)『放送禁止歌』がとっくに消滅してて、また、あくまでも外部からの圧力、例えば解同からの圧力でなく『自主規制』でしかなかった事を調べ上げて行く仕事は素晴らしい。

 で、感想なんだが、森達也が「今の方がキツくなってる」みたいな事を確か書いてあったと思うのだが。
 多分森達也とは違った視点なんだろうが、私も感じる。
 『自主規制』
 罪は作らない、失敗しない。
 この辺は森達也の視点と同じなんだろうが、人間は機械ではない。森達也なら「善悪の二元論で解決出来ない部分にこそ『優しさ』と云う事があるのではないか?」みたいな云い方になるんだろうが。

 本を読んでて気になった部分は沢山あるのだが、二つだけ引用
  【複数の意見の折衷案からなるドキュメントなど、本来ありえない。なぜならドキュメントは「単独の視点」であり、「個的な世界観」を表出することにその存在理由があるのだから】(同書84ページ)
  【「他人の意見への同調でなく、自分の頭で考えること」
   解放同盟の西島藤彦は、インタビューの後半では願うように何度もそう口にした。】(同書101ページより)

 結局『責任不在』。

 で、もう一丁
 【・・・・・確かに糾弾はあった。僕もようやった。怖い思いをさせた事は事実やろうね。それは認めるよ。だけどな森さん、勝手な言い分と思われるかもしれんけど、メディアは誰一人として糾弾には反駁せえへんのよ。信念をもっているなら、僕らに反論すればええやないか。でも、反論なんて一回もなかったよ。みんなあっさり謝ってしまうんですよ。僕も糾弾の現場に居合わせたことは何度もあるけど、やってるうちにつくづく情けなくなってくるよ。誰一人として応戦して来えへんのやから。表現を職業に選んだ人たちが、どうしてこの肝腎なときに沈黙してしまうんやって・・・・・、言えた義理やないことはわかってます。でも言えた義理やないけど、僕はつくづく思ったよ」】(解同、太田氏のコメント。同書219ページより)

 やはり自己責任の復権を感じる。連帯責任は全体主義だし、この本で暴かれるような『放送禁止歌』と云う共同幻想でしかないタブーの責任の所在がハッキリしない為に『鵺のようなファシズム』が横行していく。そしてそれらを横行さすのは『権力』と云うアホなものの責任にして気がすんでる人達には生涯気づくわけもない事だと勝手に思うが、っちゅうか、間違いなく気づかないだろうが、『自己責任』を奪って行く人達だと私は確信する。つまり『心優しき人権派のヒューマニズム意識溢れる方々』ではないのか?
 自分が生きている人生での過失を「いいのよ、いいのよ、あなただけが悪いわけではないのよ。あなたをこういう風にした社会が悪いのよ」と云うあれだ。何故かPTAのオバはん口調になってしまうのは個人的経験なので勘弁してもらいたい。

 個人が奪われて行く。例えば『女だから』『男だから』という風潮は消えて行くだろう。全くのナンセンスだし。あるいは、「あいつは民だから」や、「あいつは朝鮮人だし」もそうだろう。全くのナンセンスだし、明確な社会認識された『差別』と云う言葉でもって問題視されている。
 しかし、当然、そんなものは姿を変質させて生き残る。

 昨日、某ブログに対してのコメントを書こうと思って散々迷って結局このブログにチラッと書いて、上手く書けなかったので削除したが、大阪の戸次公正と云う大谷派坊主が書いた『無名の人の存在感』(季刊『浄土』 1989年冬・6~7合併号)と云う文章をやはり思い出す。説明は下手なので感じたままに書くが、この文章は本当に温かくて仕方がない。大真面目に「人間ってエエもんやな~」と初めて感じれる事が出来た文章でもある。

 『無名の人』。そういう『無名の人』に対してスポットライトを当てれる人間は尊敬されたりする。『無名の人』を助ける事が出来る人は尊敬されたりする。
 で、ここからを問題視したいのだが、では、そういう『無名の人』を助ける事もスポットライトを当てる事が出来ない『無名の人』、つまりそれぞれの様々な人生を生きておられる方々、つまり私であったり、私がお参り先で出会う人であったり、王将で餃子を焼いて呉れたオッさんであったり、そういう様々な『無名の人』はどうなる?そういう『無名の人』に対して「何もしない人」等と、一体どういう思想方法でもって、どういう宗教をもっておられるのか?
 
 そこに私は『全体主義からの発想方法』と、『あくまでも個人に立った発想方法』の違いを観る。
 確か、大谷派の廣瀬杲氏が「親鸞はどこまでいっても権力の側に立とうとしなかった人です」とかと書いてあった(南御堂での講義)と記憶しているのだが、ん?「親鸞はどこまでいっても権力の側に立てなかった人」だったかな?
 それは、『無名の人の存在感』という事だと私は感じる。

 ちなみに私は以前に若干有名だった時代がある。ようするにマスコミに取り上げられた。
 当然、通ってたフリースクールだったり、『聖カミソリ』という初めてやった飲み屋だったり『坊主バー』と云う2番目にやった飲み屋を通じてだが。そういう『余里径倶楽部の』『聖カミソリの』『坊主バーの』でなく、『無名の人の存在感』。それで思いっきり楽になれた。
 なので、そういう『無名の人の存在感』を否定する思想・宗教には真っ向から批判する。当然、そういう私自身も批判する。


 ♪人が生きとるネー 
  人がそこで生きとるネー
  人がおるんヨネー
  人がそこにおるんヨネー
  (吉田拓郎『唇をかみしめて』より)