坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

パンクス

2006年08月11日 | 坊主の家計簿
 8月11日

 雑費   缶コーヒー     120円
      石鹸3×2     414円
 食類   モロヘイヤ     120円
      発泡酒2      350円
      ミンチ肉      110円
      もやし        49円
      キムチ        88円

 合計           1409円
 8月累計        49212円

 仕事後、本堂で雑用。初盆の法要に向けて。
 終わって、「う~ん。。。買い物に行こうか、明日にしよか。。。」と迷いながら家事してたら結構ええ時間になったので、また今度やな。
 雪駄の新しいのをこの間下ろしたので『おニュー』が無くなったので買っとかなあかんのと、エビオス錠もこの辺で買うのと街中で買うのとでは200円~300円違うし。夏服のバーゲンも狙いたいし。どうせ最近は定番もの、もしくはアジア&インド系のあっさりしたのしか買わないのでこの時期に買って置いた方が安いのだ。
 
 &、やはり飲みに行っておいた方がイイ。飲みに行かずにいきなり今治に行くのは危険だ。なんせ今治は『焼き鳥』と『焼豚玉子飯』が名物と云う危険な街だ。私がハマる事間違いなしの街だ。よってこのまま飲みに行かないと、どこの街にもある怪しい一角に必ずある怪しい連中が溜る怪しい店に潜り込んで飲んだ呉れる事が眼に見えている。2年前に高知でジャズ店を2件ハシゴして、次の日に二日酔いで旅先で地獄を見る過ちを繰り返してはならない。っちゅうか、別にエエのだが、旅のよき想い出なんだが、一応バイク旅行だし。

 と云う事で、今日は街に出るのを辞めて早く寝る準備の為に夕方から酒飲んでます。予定就寝時間は21時なり。ん?22時にするか。セリーグの首位攻防も地上波ではやってないし。
 思うのだが、NHKが中継しようが、他の民放が中継しようが、やはり阪神はサンテレビでは必ずやるべきではないのか?サンテレビほど阪神タイガースを愛してる放送局はないぞ。
 と、書き垂れつつラジオで阪神戦を聞きながら書き込む。
 桧山、よっしゃ!

 
 ちょこっと気になる日記(8月10日)を昨日寝る前に読んだ。
 だいたい私は前の日の深夜に読めなかった時以外は、自分の所の掲示板なりブログなりを先に書いてから歯磨きしながらよそのブログなり掲示板を読む。で、他の諸々のニュースや、その他身の回りに起った出来事なども含めての所感を書いている。まあ、『気になる事』は朝起きても気になってるし。

 で、若干、上記リンクを読んで問われた事を考えながら書いてみる。
 例えば私が上記リンクの文章に対して、「だから女はダメなんだ。当然全ての女がダメというわけではない。しかし、底に流れる精神はこんなものなのではないかと言ったらいいすぎだろうか?」
 と、書くと当然問題だと私は感じる。それは『一人一人』を無視した非常に横暴な思考方法だ。単なる差別であると私は感じる。
 しかし、当然『社会認識』という事もある。『男としてどういう風に育てられて来たのか?』それは一つの解体の手がかりにはなるのかも知れないが、でも、その発想自体が横暴ではないのか?『時代』『社会』だけでなく、『個々』として違う。
 
 当然、自分自身の体験から「私はこういう風に社会に影響されて来たので『男』としての息苦しさを感じます」のなら構わない。
 メンズリブでも個人からの出発なんだろうし。その上で、では、私が影響された文化はどういうものだったのか?と云う話なんだし。でも、それが例えば同時代の全ての男性に通じるわけがない。共感、同感を呼ぶ事は出来ても、全てに通じるわけがない。
 個々から始まるからこそ力になるのではないのか?それは個人の解体作業でもあるが、個々である。

 しかし、だからこそ、『個人』と云う存在を無視する横暴な精神はやはり『許せない』
 と、『許せない』とやはりなってしまう。
 『許せない』とは他人事ではないのか?確かに気は済む。
 『やられたらやり返せ』は気が済む。でも、気分だけスッキリして何ら問題の解決にはなっていない。

 親鸞ならどうするのだろうか?
 と、ふと、酔っぱらった頭で考える。当然、書物をひもとく気力はない。諸々、『親鸞』『真宗』と云う名で聞いて来た事を思い起こす。
 「オマエも、同じやんけ。差別された事をかさに来て、差別しかえしてるだけやんけ」
 と、酔った頭に響く。
 『許せない』と云う事で、相手を斬り裁く。諸々の学んで来た事でもってエリート意識をかさにきて、斬り裁く。

 「悲しいね」と、恩師の声が聞こえる。

 【『我々は不善法を行じたことにより、長いこと近親を滅ぼすことをしてきたのだ。それならば、我々は善法を行じようではないか。では、どのような善を行じたらよいのだろうか。そう、我々は殺生を禁じよう。我々はこの善法を受持することにしよう。』 】(転輪聖王獅子吼経より)

 【吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。】(宣言より)

 【「かれは、われを罵った。かれはわれを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。
 「かれは、われを罵った。かれはわれを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。ーーーこのことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。】 (ダンマパダより)

 私が生きてる中で様々な罪を犯す。当然、差別だってするだろう。また、社会構造的な差別だってある。また、されるだろう。
 罪は罪である。私が犯した罪は告発してもらいたいし、私がされた罪は告発したい。

 糾弾とは個人との出会いではないのか?

 私は『在家』出の『役僧』である。よって、
 「オマエは在家出だからダメなんだ。」なんて云われたくない。「オマエはオマエだからダメなんだ」と云われたい。
 「オマエは役僧だからダメなんだ。」なんて云われたくない。「オマエはオマエだからダメなんだ」と云われたい。
 同じく
 「オマエは高校中退だからダメなんだ。」でなく、「オマエはオマエだからダメなんだ」と云われたい。
 「オマエは両親が離婚してるからダメなんだ」でなく、「オマエはオマエだからダメなんだ」と云われたい。
 私の人生は私のものである。どんな私でも私である。