<「ヴィヴァルディは(捨子や孤児たちを収容し、教育する慈善院で)、ほんの数カ月しか教えていませんでした。十代の孤児の女の子たちに手を出し、みだらなオカルト儀式に参加させた という よからぬ噂が流れたのですが、証拠はまったくありません。歴史修正主義者どもの歴史観とやらには、うんざりしているんです。英雄たちをことごとくこき下ろそうとしているみたいじゃないですか。モラルが欠如した現代社会は、歴史上の巨人たちを高みから引きずり下ろすことで、安心しようとしているんでしょうね。そういう非難は、文化的遺産を残してくれた偉大な男たちや女たちよりもむしろ、わたしたち自身の時代に向けられるべきものではないかと思います」>マイケル・ホワイト著横山啓明訳「メディチ家の暗号」P279より
この一節は、ヴェネチアのヴィヴァルディ協会会長が古病理学者に、ヴィヴァルディなる人物を説明する会話の一部ですが、偉人が再評価されるTV番組を最近よくみるので、再評価=こき下ろし は現代の傾向か?、おもしろいなー と思いました。
火のないところには煙は立たぬ はあるだろうし、新たに見つかる文献や文献の新解釈などによって史実は日々変わるといってもよいのでしょうね。また 好き嫌いから 史実にかかわる情報を故意に取捨選択したり・各情報の軽重を変更したりして、史実を変えてしまうこともあるでしょう。情報化社会では誰でもそれが可能ですし…
皆さん 好奇心旺盛でしょうから、一般的には 新しもの好きなので新説はもてはやされる?マスメディアも商売ですから 新説を掻き立てる?政治にかかる歴史になると、為政者に都合の良い解説が相次ぐ?我々は何を元に歴史を読んでいったらよいのだろう?誰がどんな機関が、歴史の本流=史実を明かし続けてくれるのだろう?どんな歴史(新解説)を見るにしても、先ず自分の確たる視点がないと振り回されますよね?確たる視点はどうしたら築けるのだろう? こんなことを考えてしまった一節でした。
この一節は、また 現代のモラルの乱れにも触れていますが、人口増、自由平等の絶対化、表現の自由の行き過ぎ、義務より権利を・そして弱者を重視すぎるマスコミ、プライバシー権の拡張化、医療や生活保護の充実などで、以前は自然に淘汰されていた異常者が社会に増えてきていて、モラル水準は以前より後退しているように感じますので ‘一節の通り’だと思いました。
が、
昔は社会のあちこちに、絶対権力者や大金持ちや聖職者の治外法権的なスペース、閉ざされモラル何でもありのスペースは、結構あったでしょうに… マスメディが皆無だったことも社会の上層部の好き勝手を増長させたりして… 経済も最たる規模ではなかった昔は、性も生きる手段であった方も大勢だったでしょうに… 性のモラル云々は、今と昔とでは同じ基準でははかれないのかも…
この一節を契機に 改めて四季を聞きましたが、自身のヴィヴァルディには変わりは出ませんでした。
偉業はその人となりとは独立してあるものとしていいのだろうか?
また遅読とはなりました。
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