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9日の散歩 ( 妙蓮寺、百々橋ひろばへの散歩 )

2018-01-09 16:23:37 | Weblog
 雨が上がったので歩いてきましたが、きょうは風が強いですね。
京都気象台では、11:05分に西の風16.2mを観測している様です。
北海道や東北は20m・30mと言っていますので、大変でしょうね。

 冷たい風に吹かれた散歩の最初は妙蓮寺から。

ここは、「寒咲あやめ」を見たかったのですが、きょうは一輪も見られませんでした。
で、紫のあやめの代わりに撮ってきたのは、ベトナム国旗の様な赤と黄色の椿。
花全体を撮ると、花弁が汚いので花芯だけを撮ってきました。

 あやめの代わりをもう一枚で御会式桜。

この時期の桜ですので、これで満開状態と言えそうなくらい、たくさん咲いています。

 青空も見えているので桜をもう一枚。

きょうは一眼レフにマクロレンズでの撮影ですので、バックがよくボケてくれました。

 妙蓮寺から寺之内通りを東へ歩き、堀川通りを越えると宝鏡寺があります。
宝鏡寺は冬の旅の特別公開をやっていますが、行ったのは宝鏡寺の東にある「百々橋ひろば」。


ひろばに置いてある石は、石臼ではなくて百々橋の橋脚の礎石。
石柱には「明治十三年七月 造」とあるので、明治期に架け替えられた時の物の様です。

 広場の説明書き。

図を拡大するとこうなります。

 昔こんな風に小川 ( こかわ ) が流れていた。
 説明書きを書きだしてみると、
「小川 ( こかわ ) と百々橋の礎石」とあり、「おがわ」ではなく、「こかわ」と呼ばれた様です。
「 かつてこの場所には、本法寺や報恩寺の東にその痕跡を残す小川が南北に流れていた。
 百々橋の名は『中昔京師知事』に記されている「百々の辻」に由来すると伝えられ、戦国時代の京都を描いた『上杉本洛中屏風』には、法鏡寺殿 ( 宝鏡寺 ) の東を流れる小川に木橋が描かれている。
 この橋が知られるようになったのは、戦国時代にこの地を中心として有名な合戦がおこなわれたことによる。とくに応仁・文明の乱 ( 1467~1477 ) では、
この橋から一条戻り橋までの一帯が、西軍の山名方と東軍の細川方との主戦場となった。
 小川は昭和40年 ( 1965 ) には埋め立てられ、江戸時代に石橋にかわった百々橋も解体されたが、地域の方のご尽力により、橋材は一時、室町小学校で保管され、その後、洛西ニュータウンの竹林公園内 ( 昭和56年 ( 1981 ) 開園 ) に移築された。
この礎石は百々橋の橋脚を支える4基のうちの1基であり、百々橋をしのぶ貴重な遺産としてこの地に戻された。なお、竹林公園と室町小学校にも礎石が残されている。」

とあります。

 ここから小川通りを少し上がれば裏千家の向かいに本法寺があり、小川の名残の濠と橋とが見られます。
少し東へ歩いて小川通りを下がれば、報恩寺があり、橋が見られます。

 この後は相国寺から上御霊と歩いて来ましたが、撮るものが無かったので写真はここまで。
百々橋ひろばの説明書きでお茶を濁した散歩になりました。

 以上、9日の散歩は少し強めの風に吹かれて応仁の乱の痕跡探しの散歩でした。

カメラ SONY α77Ⅱ 
レンズ TAMRON SP 90mm F2.8 Di MACRO
カメラ Panasonic DC-FZ85-K zoom 3.58~215 F2.8-5.9

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