第3戒
律法の否定的性格
p102~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
法の否定的性格は自由を保障する。
いかなる人も、禁止されていない事柄について、法の拘束を受けることはない。
当然の事ながら、法は非禁止事項については全く無関係。
戒めが「盗んではならない」と言うならば、その戒めは窃盗について述べているのであって、それ以外のことについては述べていない。
合法的に得られた財産について、この戒めは何も言うことができない。
その法が冒涜や偽証を禁じている場合、それ以外の発言は本質的に自由である。
法の否定的性格は、ポジティブな生活と人間の自由を保証する。
もし法律が肯定的な機能を備え、人々の健康に関する法が最高の法であるなら、国家は完全な健康を与えるために徹底した支配権を持つことになる。
そうすると、人々は二重の刑罰を受けることになる。
国家には全権が与えられ、全体主義国家が生まれる。
あらゆるものは、健康へと導くだけでなく、健康を破壊する可能性がある。
故に、法は制限を失い、よって、国家も制限を失う。
悪をコントロールするのではなく、万人をコントロールすることが国家の仕事となる。
全体主義国家の基本的理念は、法の機能は肯定的であるべきだということ。
全体主義国家における法の機能の肯定的性格は、人間にはいかなる自由の領域も存在しないということを意味する。
つまり、国家が人民の健康保全の名目で支配することのできない領域は存在しないということになる。
国家はあらゆることに関心を持ち、あらゆる活動、関心事、思想に干渉するようになる。
国家が国民の福祉を向上させること、また一般かつ完全なる健康を促進することが可能であると考えることは、国家が全能であることを認めることに等しい。
国家が全能であると認めることは、国民が無能であることを認めることに等しい。
国家は、子供っぽくて未熟な国民に奉仕する子守役となる。
法は肯定的な機能を持つ必要があると主張する人々は、国民は本質的に子供であると考えている。
この点で、聖書も同じことを述べているのではないか、と主張する人々もいる。
人間は長い時間を経て発達してきたとする進化論的信仰によれば、人間は原始的な本能や衝動を持ち、まだ子供の状態にいて、まだまだ進化する可能性がある。
しかし、聖書には、元来人間は成熟と善を備えた存在として創造されたと書いてある。
人間の問題は、その原始的な性質や子供っぽさにあるのではなく、無責任にある。
人間は成熟することを拒み、無責任を望む。
人間は反逆者であり、その行動様式は、幼稚なのではなく罪そのもの、無知なのではなく意図的な愚かさだ。
律法の否定的性格
p102~
The Negativism of the Law
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony
◇◇
法の否定的性格は自由を保障する。
いかなる人も、禁止されていない事柄について、法の拘束を受けることはない。
当然の事ながら、法は非禁止事項については全く無関係。
戒めが「盗んではならない」と言うならば、その戒めは窃盗について述べているのであって、それ以外のことについては述べていない。
合法的に得られた財産について、この戒めは何も言うことができない。
その法が冒涜や偽証を禁じている場合、それ以外の発言は本質的に自由である。
法の否定的性格は、ポジティブな生活と人間の自由を保証する。
もし法律が肯定的な機能を備え、人々の健康に関する法が最高の法であるなら、国家は完全な健康を与えるために徹底した支配権を持つことになる。
そうすると、人々は二重の刑罰を受けることになる。
国家には全権が与えられ、全体主義国家が生まれる。
あらゆるものは、健康へと導くだけでなく、健康を破壊する可能性がある。
故に、法は制限を失い、よって、国家も制限を失う。
悪をコントロールするのではなく、万人をコントロールすることが国家の仕事となる。
全体主義国家の基本的理念は、法の機能は肯定的であるべきだということ。
全体主義国家における法の機能の肯定的性格は、人間にはいかなる自由の領域も存在しないということを意味する。
つまり、国家が人民の健康保全の名目で支配することのできない領域は存在しないということになる。
国家はあらゆることに関心を持ち、あらゆる活動、関心事、思想に干渉するようになる。
国家が国民の福祉を向上させること、また一般かつ完全なる健康を促進することが可能であると考えることは、国家が全能であることを認めることに等しい。
国家が全能であると認めることは、国民が無能であることを認めることに等しい。
国家は、子供っぽくて未熟な国民に奉仕する子守役となる。
法は肯定的な機能を持つ必要があると主張する人々は、国民は本質的に子供であると考えている。
この点で、聖書も同じことを述べているのではないか、と主張する人々もいる。
人間は長い時間を経て発達してきたとする進化論的信仰によれば、人間は原始的な本能や衝動を持ち、まだ子供の状態にいて、まだまだ進化する可能性がある。
しかし、聖書には、元来人間は成熟と善を備えた存在として創造されたと書いてある。
人間の問題は、その原始的な性質や子供っぽさにあるのではなく、無責任にある。
人間は成熟することを拒み、無責任を望む。
人間は反逆者であり、その行動様式は、幼稚なのではなく罪そのもの、無知なのではなく意図的な愚かさだ。