☞ Prayer: Guaranteed to Succeed! - Charles Spurgeon Sermons
47分02秒から最後まで。
◇◇
あなたは大したことのないぼろ切れを着ているのだろうか。
求める者は誰でも受ける。
あなたは罪で汚れているか。
それは重要ではない。
探す者は誰でも見出す。
自分は神から完全に締め出されたと思うか。
それも重要ではない。
叩きなさい。そうすれば、ドアは開くであろう。
求めた者は皆受けた。
そこに選びはないのか。
疑いなく、それは絶対にある。
しかし、それが制限を受けないこの真理を変えることはない。
求めた者は誰でも受けた。
何てリッチな聖書箇所だろうか。
誰でも求めた者は受けた。
われらの主がこのことを語られた時、証拠として、主はご自身の命のことを指し示していたのだろう。
このことに関連して、キリストを受けなかった者は、キリストを求めなかったのだということを示すことができる。
主がカナン人の女を子犬になぞらえた時、彼女の願いは最初聞き入れられなかった。
しかし、子犬でさえテーブルから落ちたパンくずは食べますと勇気をもって話した時、求める者は誰でも受けるということを見い出すのです。
同様に、人込みの中でイエスの背後に来て、彼の衣のすそに触れた婦人。
彼女は求めなかったが、探す人だった。
そして、見出した。
このように、すべてに対して答えがあると思う。
激しい悲しみの中にある人が、「長いこと、救いのために神に叫んでいる。求め続けている。探し続けている。叩き続けている。しかし、答えはまだ来ない」と言う。
親愛なる、諸君。
真実なることが求められれば、神はあなたとともにおられます。
私は誰を支えているか知っている。
自分を信じる前に、神を信じるように勧めます。
神は祈りを聞いて下さっている。
救いの祈りの前にひとつ大事なことがあることを忘れてはいないか。
それは福音。
祈れば救われると福音書には書いていない。
それは福音ではない。
彼は救われるとは思うが、私があなたに宣べ伝えるように言われている福音はそうではない。
全世界に出て行って、すべての被造物に福音を宣べ伝えなさい。
信じて、洗礼を受ける者は、救われる。
さて、あなたは、救って下さるように神に求め続けている。
信じて、洗礼を受けなくても、神はあなたを救って入れると思い込んでいる。
ご自身のことばを無視するように神にお願いをするという図々しさはなかったのかもしれない。
神はこう言うであろう。
「あなたに命じる。御子を信じなさい。私を信じる御子は永遠の命を持っている。」
あなたはイエスキリストを信じていますか。
もちろん、完璧に信じています。
そうですか。
それなら、もはや救いを求める必要はないのではないか。
すでに、あなたは救いを手にしている。
あなたは救われている。
心の底からイエスを信じているなら、あなたの罪は赦され、あなたは救われている。
次回主に近づこうとする時、祈りとともに、賛美をもってそうしなさい。
歌い、主の御名を賛美しなさい。
しかし、私はすでに救われていることを、どのように知ることができるのだろうか。
ある人はこう言う。
バプテスマを信じる者は救われると神は言っている。
信じましたか。
バプテスマを受けましたか。
そうであるなら、あなたは救われている。
どうして分かるのか。
全世界の最善の証拠として、神がそう言っているから。
そのための証拠が欲しいのか。
私はこう考えたい。
あなたの考えは神の証言より優秀か。
神の証言以上のしるしを求めることによって、神を嘘つき呼ばわりしたいのか。
次のこと以外に私自身の救いを信じるための証拠を、私は持ち合わせてはいない。
心の限り、知性の限り、力の限り、私はキリストのみに安息している。
他の避難所はない。
そのようなことなら、これを求める必要があるという証拠となるだろう。
他の証言は、あなたの心に恵みが時に適って届き、あなたの回りに群れをなすかどうかということ。
あなたが告白する教えを崇めなさい。
しかし、まず初めにすべきことは、イエスを信じること。
信仰をずっと求めてきたと言う人もいる。
どういう意味だろうか。
イエスキリストを信じることは神の賜物だが、あなた自身の行ないでもあるだろう。
あなたに代わって、神が信じてくれるとでも思っているのか。
私たちの代わりに、聖霊が信じてくれるのだろうか。
聖霊は何を信じるべきなのか。
あなたは自分で信じなければなりません。
そうでなければ、失うでしょう。
主は嘘をつくことはできません。
あなたはイエスを信じていないのだろうか。
イエスは、信じる価値のあるお方です。
信じなさい、そうすれば、あなたは救われます。
そして、あなたの祈りは聞かれます。
別の人は次のように言います。
「私は信じ、すでに救われている。しかし、他の人たちの救いを追い求めており、この祈りに対する答えを待っている。」
親愛なる、君へ。
あなたはすでに答えを得ています。
求めた者は受ける。
探す者は見出す。
叩く者に、ドアは開かれる。
しかし、次のように言うかもしれない。
「ある人の回心のために、何年も何年も、幾度となく祈り求めてきた。」
いずれそれは得られます。
或いは、何故それを得なかったのか、それが分かる日が来ます。
どうしてそれを得なかったのか納得できるはずです。
希望をもって、祈り続けなさい。
死んでしまった人たちのために祈る人がたくさんいます。
自分の子どもたちのために長年の間祈り続けたけれども、回心してくれなかった子らを持つ父のことをお話したことがあります。
全く世俗的なことでした。
死の時が迫ってきた時、この父はベッドの回りに子どもたちを集めました。
最後に、キリストについてそのようない証しをすることができる希望を抱いて。
子どもたちが回心して祝福されることになるかもしれなかったからです。
不幸なことに、彼は心の深い苦しみの中にいました。
キリストにある自分自身の救いについて疑念を抱いていたのです。
彼は、闇の中で病に倒れた神の子らのひとりでした。
暗黒は何よりも彼の心の最悪の恐怖だったため、愛する自分の子どもたちが自分の苦しみを見て、宗教に対して偏見を持つのではないかと恐れたのです。
その善良な男は埋葬され、息子たちは葬儀に参列しました。
まさにその日、神はこの人の祈りを聞き入れました、恐らく。
彼らは墓から立ち去りました。
ある兄弟が別の兄弟に、次のように話していました。
「父は最も不幸な死を遂げたことに、私はとても驚いている。私たちの父ほど良い人はいない。父のような敬虔な人が死ぬのは辛いことと思うのであれば、信仰を持たない私たちにとっては、死はあまりにも恐ろしいものとなるだろう。」
同じ思いが彼ら全員をよぎり、彼ら全員を十字架へと駆り立てました。
神秘的な仕方で、善良な男の祈りは聞かれたのです。
天と地は過ぎ去ります。
神が生きている限り、祈りは必ず聞かれます。
神がご自身のことばに真実であり続ける限り、願いは無駄とはなりません。
いつも祈ることのできる祝福を、主が与えて下さいますように。
アーメン。