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Jesus Christ, Transcendent and Immanent 超越性と内在性
King of Kings
Part One: The Son of Man
The Days of Vengeance
David Chilton
◇◇
黙示録1:9-16
この点においても、現代ディスペンセーション主義とは決定的な違いがある。
現代アメリカにおいて流布している薄められたバージョンは、キリストの王権と統治権という概念を拒絶する。
忍耐に関する教えも拒絶する。
結果として、現代福音派の改宗者は、要求が最小限の信仰にすら留まることができないのが現状。
「永遠の保証」という有名な教理も、半面の真理でしかない。
現代ディスペンセーション主義の基盤は、保証に関しては実に非聖書的な教え。
彼らの言う保証とは、聖書において与えられる保証、すなわち忍耐と関連する保証(cf. 1 John 2:3-4)ではない。
第1ヨハネ2:3—4
もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
聖書は、われわれクリスチャンは守られているだけではなく、最後まで耐え忍ぶよう教えている(see John 10:28-29; Rem. 8:35-39; 2 Cor. 13:5; Phil. 1:6; 2:12-13; Col. 1:21-23; 2 Pet. 1:10)。
ヨハネは、キリストに関する自分の証しゆえにではなく、神のことばとキリストの証言ゆえに、流刑されていると語る。
神が語り、キリストが証言するが故に私は苦しんでいる、と。
われわれクリスチャンはキリストとすべてを共有する。
1章10節
I was in the Spirit on the Lord's day,
and heard behind me a great voice,
as of a trumpet
主の日に、私は聖霊の中にいた
背後で大きな声を聞いた
トランペットのような
*新改訳の「御霊に感じ」は致命的な誤訳。
これは実体験であり、預言における技術的表現((Matt. 22:43; cf. Num. 11:25; 2 Sam. 23:2;Ezek.2:2; 3:24; 2 Pet. 1:21)。
エゼキエル2:2
その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。
ヨハネはこのビジョンを主の日に見た。
主の日の起源は安息日にさかのぼる (Gen. 2:2-3)。
聖書における「休む」とは、裁きに際して神が御座に座すことに関連する。
元来の安息日は、「主の日」のひな型。
イスラエルの週ごとの安息日は、最初と最後の「主の日」の法的再設定を意味する。
その日に人々は集って、裁き、死刑、恩赦の法的宣言、王のことばの布告を行なう。
同様に、主の日に、私たちも神の御座の御前で、罪の赦し、回復、御言葉、交わりを行なう。
主の日に、すべてのクリスチャンは「聖霊の中に」いる。
礼拝の時、私たちはみな神の御座に引き上げられる。