みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#10 The Days of Vengeance, NO.10

2024年05月18日 | 報復の日々

p69~
Jesus Christ, Transcendent and Immanent 超越性と内在性
King of Kings 
Part One: The Son of Man
The Days of Vengeance
David Chilton

◇◇

黙示録1:9-16


この点においても、現代ディスペンセーション主義とは決定的な違いがある。

現代アメリカにおいて流布している薄められたバージョンは、キリストの王権と統治権という概念を拒絶する。

忍耐に関する教えも拒絶する。

結果として、現代福音派の改宗者は、要求が最小限の信仰にすら留まることができないのが現状。

「永遠の保証」という有名な教理も、半面の真理でしかない。

現代ディスペンセーション主義の基盤は、保証に関しては実に非聖書的な教え。

彼らの言う保証とは、聖書において与えられる保証、すなわち忍耐と関連する保証(cf. 1 John 2:3-4)ではない。

第1ヨハネ2:3—4
もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。 
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。 

聖書は、われわれクリスチャンは守られているだけではなく、最後まで耐え忍ぶよう教えている(see John 10:28-29; Rem. 8:35-39; 2 Cor. 13:5; Phil. 1:6; 2:12-13; Col. 1:21-23; 2 Pet. 1:10)。

ヨハネは、キリストに関する自分の証しゆえにではなく、神のことばとキリストの証言ゆえに、流刑されていると語る。

神が語り、キリストが証言するが故に私は苦しんでいる、と。

われわれクリスチャンはキリストとすべてを共有する。

1章10節
I was in the Spirit on the Lord's day, 
and heard behind me a great voice, 
as of a trumpet
主の日に、私は聖霊の中にいた
背後で大きな声を聞いた
トランペットのような

*新改訳の「御霊に感じ」は致命的な誤訳。

これは実体験であり、預言における技術的表現((Matt. 22:43; cf. Num. 11:25; 2 Sam. 23:2;Ezek.2:2; 3:24; 2 Pet. 1:21)。

エゼキエル2:2
その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。 

ヨハネはこのビジョンを主の日に見た。

主の日の起源は安息日にさかのぼる (Gen. 2:2-3)。

聖書における「休む」とは、裁きに際して神が御座に座すことに関連する。

元来の安息日は、「主の日」のひな型。

イスラエルの週ごとの安息日は、最初と最後の「主の日」の法的再設定を意味する。

その日に人々は集って、裁き、死刑、恩赦の法的宣言、王のことばの布告を行なう。

同様に、主の日に、私たちも神の御座の御前で、罪の赦し、回復、御言葉、交わりを行なう。

主の日に、すべてのクリスチャンは「聖霊の中に」いる。

礼拝の時、私たちはみな神の御座に引き上げられる。