みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#680 神の法第六戒

2024年05月06日 | 神の法

久しぶりのエントリー。

黙示録のみならず、旧約聖書もまた将来の地殻変動に備えるための指南書。

しっかりと読み込んで、今後の杖・教訓とする必要がある。

この世は相当きな臭くなってきている。

◇◇


第6戒
9.軍法と生産

p277~
Military Laws and Production
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

聖書の軍法は、人間に対して特異的に関連しているという理由は、それが戦争法のみならず、重要な一般的な原則を含んでいる点にある。

軍法を調べてみると、次のようなことが分かる。

第1に、正義の防衛のために、悪の抑制のために、敵からの母国防衛のために、戦争する時、軍法は賠償か修復のための業務のために必要となる。

それ故、聖書において、軍法は主の戦いとして書かれている(民数記21:14)。

民数記21:14
それで、「主の戦いの書」にこう言われている。・・・

兵士が用意すべきことに、本来の職務に加えて宗教的献身が含まれていた(ヨシュア3:5)。

ヨシュア記3:5
ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」 

第2に、その法は兵士の年齢を明示した。

すべての健康な20歳以上の人は、兵役の適格者だった(民数記1:2,3,18,20、45,26:2,3)。

民数記1:18
第二月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごとに、父祖の家ごとに、二十歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した。 

この基準は長期にわたり流布され、アメリカ独立戦争の軍事作戦の基礎となった。

それは依然として選択的兵役だった(民数記31:3~6)。

例えば、ミディアンとの戦いにおいて、ルベン部族から適格者46500人、ユダ部族から適格者74600人、ベニヤミン部族から35400人(民数記1章)、また各部族からは1000人ほどが軍務についた。

各部族からは千人ずつ徴兵された(民数記31:4)。

徴兵のための適格性は、原則として、極度の危機的情報において軍務に適することが要求された。

民に対する戦争は神聖であり、神の回復の業に奉仕するため、信仰と従順によって働くのなら、神はご自身の部下を守った。

出エジプト記30:11—16によると、軍事行動において、各人は、自分のために贖い金(つまり、援護金)を差し出さなければならない。

同上
主はモーセに告げて仰せられた。 
「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。 
登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。 
二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。 
あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。 
イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。」 

Ewingが指摘しているように、その目的は、戦争に参加する者たちの命のための贖い金を作るためだった。

出エジプト記30:12にある「災い」とは、ヘブル語でnegeoh、すなわち、語幹が強硬、血塊、敗北、殺害、殺傷、悪化という意。

 

 


#60 基礎教理 Ask, and it shall be given you, NO.5

2024年05月06日 | 基礎教理

Prayer: Guaranteed to Succeed! - Charles Spurgeon Sermons


28分25秒から35分58秒まで。

◇◇

私たちの祈りが

神との肉声による会話であっても

真の祈りであると定められた方法による実践的な祈りであっても

その両者を用いた実践的な祈りであっても

涙やため息によってのみ表現される祈りであっても

おののきつつ願いを込めた無言の祈りであっても

その祈りは必ず聞かれます。

どんな形式であれ、真の祈りは天の反応と調和する。

このようなさまざまな祈りは、天へと上るための尺度を満たしている。

このようなさまざまな祈りは、天へと上るための尺度を満たしていることをよく見て欲しい。

まずは求めよと書かれています。

私たちの必要を単純にことばにするとこうなるのだと思う。

その中で、私たちは「欲しいものはこれです。欲しいものはあれです」と主に申し上げます。

そして、主が確かにその通りと認めるようにお願いをするのです。

しかし、祈りの仕方を学ぶとき、探すことよりも先へと行ってしまうこともあります。

私たちの議論をまとめる必要があります。

私たちの願いが叶うべき理由を申し上げる必要があります。

そして、必要な恵みのために、神と相撲を取り始めます。

祝福がすぐにやって来ない時は、(祈りの段階を)第3段階まで上げる必要があります。

それが「叩く」という意味です。

注文が多くなります。

求めて、そして理由を申し上げるだけでは満足できなくなります。

しかし、心から真摯に、そして真剣に、願いを言い表します。

そして、はっきりと言うことにより天の御国は進展していき、力強い人たちがそれを掴み取ると聖書に書いてあることを論証します。

つまり、祈りは、陳述である「求める」ことから、申し立てである「探す」へ、さらに、私たちの願いにおける緊急の頑固さである「叩く」ことへと成長していきます。

祈りの各段階に対して別個の約束があります。

求める者たちは、求めるものを受けます。

しかし、さらに先へ行って探す者たちは、見出し、喜び、得て、欲しかったものを手に入れたと認識します。

叩く者たちは、さらに先に進んで行きます。

彼らは理解し、彼らにとって貴重なことが開かれます。

彼らは祝福され、それを楽しむだけでなく、事の成り行きをよく理解します。

こうして、すべての聖人たちは、高さも深さも十分に把握できるようになります。

しかしながら、あらゆることを包括するこのことに注目して欲しい。

どのような様式の祈りであっても、それは必ず叶います。

どのような様式の祈りであっても、それは必ず叶います。

求めれば、受けます。

探せば、見出します。

叩けば、ドアが開かれます。

しかし、それぞれの場合において、あなたの信仰に応じてそれは為されます。

今日の聖書箇所における約束の規定は、皆一緒のものとして捉えることはできない。

求め、探し、叩いた者のみが受ける。

それぞれ個別事項であります。

お互いに別個に、求める者たちは受け、探す者たちは見出し、叩く者たちにはドアを開けて下さいます。

祝福を受けるのは。これら3つのことをすべて行なった時ではありません。

それらのいくつかを行なえば、行なった分の答えを受けます。

しかし、これら3つのうち一つの祈りだけを行った時は、心が追い求めるものひとつだけを得ます。

この3つの祈りの方法によって、私たちは多種多様な祝福が得られます。

この聖書箇所は、信仰は求め、希望は探し、愛は叩くということを意味していると言う人たちがいます。

信仰が求めるとは、神が与えるだろうと信じるからです。

求める希望は期待をし、それ故、恵みを追い求めます。

愛は、神から否定されるどころか、神の家へと入って一緒に食事をしたいと切に願うことです。

それ故、神が開けるまでドアを叩き続ける。

ここで、主題に戻ります。

祝福を得るための祈りが何であれ、恵みはそれぞれの祈りに由来します。

信仰が求めるなら、受ける。

希望が探すなら、見出す。

愛が叩くなら、ドアが開かれる。

これら3つの祈りの方法は、異なる段階の苦悩において、私たちには都合が良い。

恵みのドアの前で物を乞うている。

助けを求めると、それを受けることができる。

しかし、同時に、私は道に迷い、戸惑い、以前に私を助けてくれた人が誰だったか覚えていない。

そこで、確信を持って私はその人を求めて、再び彼を見出す。

ここで、私は最終段階にいる。

ただ単に貧しくて、困惑しているだけでなく、神から遠ざけられるほどに神の神聖を汚していた。

野営地から追い出されたらい病人のように、私は野営地の中に入ることは許可されていないし、入ることすらできない。

しかし、ドアは私のために開かれる。

これらの3つの祈りの種類は大変シンプルです。

答えを頂くことはできないと言う者は、神のことばを理解していない。

誰でも求めることができる。

私は答えを頂くことはできないと言う者は、神のことばを理解してはいない。

誰でも求めることができる。

幼子でも求めることができる。

話ことができない乳飲み子でも求めることができる。

欲しいものを求めるために、ことばを使う必要はない。

求める資格のない者はひとりもいない。

私たちの祈りは、流暢な文章で着飾ったものである必要はない。

神はそのような祈りを好まれないと思う。

流暢な文章を使い慈善のために求める者は、得られない可能性がある。

結局、着飾った衣装やことばは、貧しい者の住まいには不適切だ。

ある日通りで一人の男が、流暢なことばで、物乞いをしているのを聞いたことがある。

大変気取った話しぶりで、堂々としたことばを使って話していた。

宙に舞うような演説によって、彼は多額の金品を受け取るつもりでいるのだろうか。

しかし、誰一人としてこの男に恵んでやる人はいないだろうと私は思った。

というより、彼の見せかけに笑いそうになった。

多くの偉大な祈りは役に立たないのだろうか。

多くの祈りや祈祷会は、あまりに大げさではないのか。

自分の話しぶりや比喩表現に気を付けなさい。

指導を受けたい人たちのためにそれらを用いなさい。

しかし、神の御前にそれらをひけらかしてはならない。