書道家Syuunの忘れ物

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syuun風「アグネス・ラムの時代」その2

2007-02-21 16:50:03 | 雑感・どうでも良いこと

「昭和という時代のアイドルビジネスの舞台裏」の特徴は、事務所がタレント管理を厳格にし始めた‥‥奔りであると言うことだ。
1970年代を代表するアイドルと言えば、今でも実力を発揮している小柳ルミ子につきるが、当時は、天地真理南沙織らとともに1970年代前半を代表するアイドルだった。
この三人組は当時一世を風靡したかと見えたが、デビュー暫くして南沙織がマネジャーがとのトラブルで、引退を宣言して突然沖縄に逃げ帰る。
その真相とは、当時の週刊誌によれば事務所管理という名目で南沙織はマネジャーの「女」にされた事と言われている。
そして、○痙攣によって二人一緒に救急車で運ばれる常連だったことが暴露された。
芸能界復帰はなったものの一時の人気は醒めてしまった。
同様に、天知真理は「ソープラント嬢」疑惑が週刊誌で報じられ、又何も知らない「アイドル面」をしながらヘビースモーカーであることが暴露された。
後年その時の事を小柳ルミ子が暴露している。
「せりふを覚えていなくて、楽屋に帰った後、中々出で来ない。」それで小柳ルミ子が覗きに行くと、「ふて腐って、タバコを吸っていたとか」当然「台詞の練習なぞしていないのだ。」
即ち、天知真理は「大スター」だと周囲が持ち上げていたわけだ。

1974年になると、こんどは小柳ルミ子がI.Hとのトラブルに見舞われる。
これは、浜松のガマ産婦人科での処置でけりが付いたが、1970年代前半に「新三人娘」と呼ばれた三人がこれでアイドルを卒業した証拠になった。
一方、浅田美代子は順調に「芸能界」の水に完全に染まり、沢田研二とのツーショト写真が週間明星の誌面を飾るようになった。
そして、1975年の頃には浅田美代子ボロボロになって打ちひしがれていたのである。
一節には、浅田美代子と夜を共にしなかった芸能人はいないとも言われたが、実態は不明。
「1975年頃からフォークシンガー吉田拓郎との噂が流れ、1977年7月に21歳の若さで結婚。芸能界を引退し主婦業に専念する。」
‥‥車のドアに挟んだとが浅田美代子が怪我をしたとき、見舞いに来たのが吉田拓郎だったという。
この吉田拓郎との交際は、浅田の家族が一致して反対した。
これもいつもの通り、浅田美代子が押し切る形で決着したのだ。
こう見ると、浅田美代子はバカに見えても決断力はある。
それはさておき‥‥‥
1975年
そして、このアグネス・ラムがやってくる。
即ち、浅田美代子、天知真理のアンチテーゼだ。
色気のない、童顔で若手時だけの浅田美代子に対して、巨乳のアグネス・ラム。
そして、不安定な歌唱力に対して、例の荒井由美・ユーミンだ。
荒井由美は、マスコミには深夜放送で初めて登場し、あっという間に‥‥‥大ヒットだった。
 1975年10月発売のシングル『あの日にかえりたい』‥‥アルバム・ミスリムMISSLIM (ミスリム)1974年10月5日
このことによって、似非アイドルの時代は去り、アイドルである以上歌唱力、演技力すべての実力を要求されることとなった。
そして、アグネス・ラム。
所詮巨乳アイドルは一時的なもの。
結局芸能界の常識にあって敢えなく撃沈。
アグネス・ラムと夜を共にした芸能人も沢山いたかどうかは定かではないが、突然ハワイに帰国。その後、日本での芸能活動は一切不問とし暫く隠し通した。
一方、1976年頃浜松で一つの火事があった。
不審火とは言われなかったが、この火事で浜松の芸能人御用達の産婦人科。
がま産婦人科の病院長・医学博士・蠣崎要が死亡。ガマ一家全滅したかは不明。
これで一つの時代が終わった。
これ以降、例のキャンディーズの時代となる。
尚、1978年(昭和53年)4月4日にキャンディーズは解散なのだけどね。


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