書道家Syuunの忘れ物

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芸能人に見る京女と東男(占)の夫婦の不思議

2006-11-23 23:47:10 | 日記

芸能人に見る京女と東男(占)の夫婦の不思議

昔から、東男に京女という言葉がある。基本的な意味は、そんな「組み合わせがよい」という様なことだったようである。
しかし、筆者が考えている京女というのは、別に京都に住んでいるから京女と言うのでない「占い上の人種の一種」である。
それで、熟年離婚しなさそうなカップルとして、投票でマスコミに取り上げられた芸能人のうち、芸能人同士の有名例を見てみた。
それでどうもこの例と見せられるのは、
三浦友和、百恵夫婦、中村雅俊と五十嵐淳子の夫婦がそうだ。
筆者の人種一覧によれば、この夫婦は「東男に京女」に相当する。

本当のことを言えば、東男に京女というのは、前世で異人種同士だから前世で夫婦とかは、あり得ない。
ところがこんな夫婦も存在する。筆者から見れば、この二組の夫婦ほど似合わない夫婦はいない。
普通のサラリーマン家庭なら熟年離婚まで持つまい。
ここで京女とは、どんな種族なのか簡単に説明しておく。

まず、京女が「あ」と言ったときは、実は「あ~ん」までの言葉をすべて含む一言である。
次に「お願いされたこと」「決めたこと」は、最終決定であり必ず従わなければならないこと。
京女のテリトリーには絶対に入ってはいけないこと。
思いついたことは、こんなところだろうか。
逆に言えば、東男にとって、「あ」は「あ」以外ではない。
「お願いされたこと」「決めたこと」は、議論の過程であって結論ではない。

だから上手く行くためには、東男にとっては、女房の言動、決定事項は「絶対」だ。それ以外に結論はあり得ない。
それに従順に従っている限り上手く行くと言うものだ。
しかも、京女が自信をもっての言うことのほとんどは正しい。

このことは、中村雅俊も五十嵐淳子が言ったことは絶対で、必ず従うと言っていた記憶がある。

尚、この夫婦の子供は当然、前世では夫婦の子供ではない事が多い。


日展を見た‥ジュデイ・オング見つからず

2006-11-23 22:10:25 | 日記
今日は、朝から東京上野の東京都美術館での日展鑑賞だ。普通日展と言えば、1科・日本画である。
まあ、その他は付け足し見たいなものと言っては語弊があるかもしれないがそんな感じである。
当然5科の書道など一種の社中展である。
2科の洋画では、昨年ジュディ・オング(版画)が特選になって話題をまいた。今年も入選で部屋はジュディ・オング第2室だ。
ところが、版画らしいものは2室にあったが、「ジュディ・オング」ではないのだ。
おかしいなぁと思っていたら、「版画家としては倩玉の名を使っている」とかかれているから、「翁倩玉」の名前だったのかもしれない。そういえばその版画は、「翁倩玉」だったようだ。
それにしても、案内は「ジュディ・オング」なのに作品のキャブションは、「翁倩玉」じゃ分からないよな。

第1科日本画‥‥大体100号ぐらいあるのかな、多分2m×2m。このくらい大きくなると、こんなものというものでも作品になってしまう。
逆に言うと、小さく30、40号にしたら作品にならない。
人物だって大きく描くから迫力があるが、小さければ単なる肖像画だ。
むかし、特選は真ん中の部屋、審査員は第一室だったような気かするが、展示を変えて今年は第1室が特選だ。確かに、特選作品はインパクトがあって、色も洗練されている。しかし、他にも良い作品があったなぁ~~と思うのは、小生だけか。

聞くところに寄ると‥‥要するに、画団というか「日展に属する先生を擁するグループ」に入っていない限り「特選」は貰えないと言うことである。こんなの書道だけと思っていたらどこの世界も同じ‥‥震撼する。
それにしても、毎年同じ題材で、風景なら位置が違う程度というものが多数見られる。
絵なんて言うのは、1回同じ題材で描けば次は遊びのようなものだ。「こうすれば‥‥‥こうなる。」は決まり切っているもので偶然性は一切ない。
こういう作品が多くなると展覧会なんかつまらなくなる。

5科書道‥‥その詰まらない典型例が書道だ。
毎年同じ、それどころかキャプション変えれば、名前を隠せば全く分からない。
まあ、創造性欠如の世界だ。調和体‥‥これとて只文が書いてあるだけのもの。
そして、当番審査員が変われば入選する傾向が少し変わる程度だ。その上、巻物になっいているものなど30cmの展示だものなぁ。これで8億円もの金が飛び交うのかと思うと凄まじいものだ。

まあ、兎に角今日は、朝から美術館は一杯だった。作品を見るのに人をかき分けかき分けじゃね。
来年の六本木今度は見に行くか思案中である。