平昌のパラリンピックは韓国では殆ど放送もされなかったようです。あの国は、身障者をバカにする踊りまであるそうですから、およそパラリンピックを開催する資格もなかったのは明らかでしょう。
そう言いながらも、五輪以上に全く感心がなかった私も同じようなものでしょう。
ところが、日本は、昔からそうした人達にやさしかったようです。これも、ねずさんが何度も書いてくれていましたが、今回は、何時も以上に詳しく取り上げてくれています。
何と、東京五輪でもパラリンピックがあったのだそうです。お恥ずかしながら全く記憶にありませんでした。
乃木大将の話も、ねずさんに初めて教わって驚いたものですが、改めて、その凄さに驚かざるを得ません。
今回は、何時も以上に長いのですが、是非リンク元で読んでください。
大和心を語る ねずさんのひとりごとよ り 2018年03月22日
パ ラリンピックと日本
先だって行われた平昌パラリンピックで、日本の選手は開催6競技中、金メダル3,銀メダル4,銅メダル3という、大活躍の結 果となりました。
選手の皆さん、またご家族のみなさんをはじめ、関係各位のご努力には、本当に頭が下がる思いです。
パラリンピックは、表向きは英国のストーク・マンデビル病院のルートヴィヒ・グットマンが、昭和23年のロンドンオリンピック の開会式当日に、「車いす選手のための競技大会」を開催したことが始まりとされています。
ところが実はこの分野では戦前の日本は、はるかに先行していました。
日清、日露の戦いを経由して、戦場で腕や足をなくされた軍人さんたちが一日も早く社会復帰できるように、手足の不自由を理由に甘 やかせるのではなく、むしろその障害を乗り越えて、技量を身に付けたり、スポーツができるように厳しく指導が行われていました。
このため第2回パラリンピックは、昭和39年(1964)の東京オリンピックと同時開催で行われたのですが、当時、世界の選手 の水準と比べて日本の選手の技量があまりにも、桁違いに高かったことから、パラリンピックは二部構成になり、第一部が外国人だけ の車椅子者だけの競技大会、第二部が全ての障害者を対象にした日本人選手だけの国内大会になりました。
実は日本における障害者対策の歴史はとても古くて、世界中の多くの国々が障害を持った人を社会の邪魔者としかしていなかった中 世において、日本では、むしろ積極的に障害を持った人に職を与え、社会全体でこれを保護するという方針がとられていた歴史を持ち ます。…中略
たとえば乃木大将として有名な乃木希典は、西南戦争等で左目を失い、また片腕、片足に銃創を負い、不自由な体になっていまし た。
けれど乃木大将は、日露戦争(1904~1905)のあと、
「私は、片手、片足が
残っているからまだ良い。
食事もできるし、
タバコも吸える。
けれど戦争で両手を失った者は、
一服の清涼剤としての
タバコも吸えぬ。
それではあまりに可愛そうだ」
と、ご自身の年金を担保にしてお金を借りて、試行錯誤の上、ついに「乃木式義手」を完成させています。
実はこの「乃 木式義手」というのはたいへんなシロモノで、この義手を付けると付けたその瞬間から、腕のない人がモノを掴んだり、 持ち上げたり、食事やタバコまで吸うことができ、字や絵も描けるという、素晴らしい機能を持った義手です。
これは今日でもそうなのですが、義手も義足も「見た目が健常者に見えるようにする」というのが世界の趨勢です。
もちろん最新の医学では、筋電義手(きんでんぎしゅ)といって、生身の腕手と同じような動きをする義手も開発されています。
ただし、コンピューター制御による筋電義手においても、卵を持つ、あるいは握手をするといった動作をするのが精一杯で、文字を書 いたり、たとえば「タバコを吸ったり」といった、微細な動きを可能とするものは、今の最新技術においても、困難とされているのが 実情です。
ところが乃木大将は、ご自分の年金を担保に借りたお金で、そんなことが実際に可能になる夢のような義手を、完成させ、これをな んと無償で、戦傷を負った部下たちに配っています。…以下略
参考:しょうけい館
この乃木式義手の動画がないものかと探して見ましたが見つけることができませんでした。
ところが、これがその原理で作られているのじゃないかと思われる動画がありました。この動きを見ると、本当に素晴らしいと思えます。
これは、もっと広まって欲しいものです。
それにしても、先人が築き上げて来ていた日本の素晴らしさに今更ながら驚かされます。
こんな心を忘れてしまっている劣化した日本は、本当に恥ずかしいですね。やはり、一日も早く再生したい。