団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★赤穂浪士の討ち入り事件

2023年12月14日 | 国体・皇室・シラス

  年末になるとねずさんが赤穂浪士を取り上げてくれることが多くなります。その事件は子供の頃にもテレビ等で良く見る機会があったものです。
  何も知らないので、単なるバカ殿の仇を浪士達が打つという単純な物語として見ていたものです。
  ところが、その裏には日本の国体に関わる問題が関わっていることをねずさんが教えてくれています。
  これを知って、新にもう一度忠臣蔵をじっくりと見てみたいものです。きっと、子供の頃とは全く違った感動があるのじゃないかと期待してしまいます。

  と言うか、日本人が国体を忘れた今こそこの忠臣蔵を放映する意義があるのじゃないでしょうか。

  ねず さん のひとりごとより   2023/12/11

  赤穂浪士の討ち入り事件

  ・・・略 

  ドラマ化しています。しかし浅野のお殿様は赤穂五万三千石のお殿様です。そのお殿様ともあろう方が、年寄りにすこしイビられたくらいで、逆ギレして刃 傷に及んだというのなら、それはあまりにも浅はかだったということになります。赤穂藩の藩士たちや、その家族、そして藩の民に対して、それは殿様として、 あまりに無責任とはいえないか。さらにいえば、そのような殿のために、家臣が討ち入りまでしているということは、すこし筋が違うのではないか、という疑問 です。

 なるほど鋭い指摘です。赤穂浪士の物語の醍醐味【だいごみ】は、実は、そんな疑問から始まるのです。そして浅野内匠頭と赤穂浪士の活躍は、実はその後の日本の歴史を変えたのです。・・・中略

 播州赤穂藩の浅野家は、そうした日本古来の思考を重要視した山鹿素行【やまがそこう】によって、藩の教育が施された藩です。山鹿素行は陸奥国会津藩の白 河浪人山鹿高道の子で、六歳で江戸に出て、九歳のときに林羅山の門下生となって朱子学を学び、十五歳からは小幡景憲【おばたかげのり】、北条氏長【ほう じょううじなが】のもとで甲州流軍学を学び、さらに廣田坦斎【ひろたたんさい】らから神道を学んで、山鹿流兵法の私塾を開いた人です。その山鹿素行の著し た『中朝事実』は、「万世一系の天皇陛下を中心に仁政と平和が続く本朝こそ中華なり」と説く書で、これが江戸で大人気となるのですが、これが徳川将軍家の 権威を貶【おとしめ】るとされて江戸所払いとなり、赤穂藩の二代目藩主だった浅野長友【ながとも】に招かれた人物です。
 その山鹿素行の教えは、
「君、君たらずんば自【みずか】ら去るべし」というものであり、
「凡【およ】そ君臣の間は他人と他人の出合【であ】いにして、其【そ】の本【もと】に愛敬【あいけい】すべきゆゑんあらず」というものです。つまり「主君 の為に死ぬことは愚【おろ】か」だと説き、武士は命を大事にして蛮勇【ばんゆう】に走らず、正しく生きるべきであるという教えです。
 このような教えを心胆【しんたん】に刻んだ播州【ばんしゅう】赤穂藩【あこうはん】の三代目藩主の浅野内匠頭【あさのたくみのかみ】が、吉良上野介とい うお年寄りにイジメられたからといって、こらえきれずに江戸城内で刃傷沙汰に及ぶ。もしそうであるのなら、それははっきり言って「バカ殿」です。そのよう な主君なら「さっさとその藩から立ち去りなさい」というのが山川素行の教えです。ましてそのような「バカ殿」のために江戸市中で討ち入りなどという狼藉を 働くなど、山鹿素行の教えではあり得ないことです。にもかかわらず、元赤穂藩城代家老の大石内蔵助【おおいしくらのすけ】以下の赤穂四十七士は、山鹿流陣 太鼓を叩いて、吉良上野介【きらこうずけのすけ】邸に討ち入りをしています。これはいったいどういうことなのでしょうか。…中略

  それにしても、あの忠臣蔵にこんな日本にとっての根幹の問題があったとは想像もしませんでした。
  こうして、戦後の日本は徹底的に貶められてきたことに改めてアメリカ人の意地の悪さを思い知らされました。


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