トタンプ流に言うところの支那ヴィルスで、この素晴らしい春の陽気の価値が減じいているが、それにしても目の覚めるような春日で、書斎から望む秋葉山とその向こうに広がる紺碧の空は雲一つなく完璧だ。
こんな素晴らしい一日を本の片付けに費やさなきゃいけないなんてとは思うが、これが結構愉しい作業で、問題はいつ終わるのか分からない点だけだ。
それでも母のリハビリの方向性を決めるために、施設の担当者が25日に家の構造を見に来ることになったので、それまでには8畳間に広げてある本の山を何とかしなきゃいけない。
時間をかけて丁寧にやっていたけど、時間切れで纏めて邪魔にならないところへ移動では元の木阿弥だなあ。
今回の整理で、もうないと思っていた長新太の本が3冊出て来た。
「怪人タマネギ男」で有名なこの作家の絵本は、原色を使った画とお話がとぼけていて何ともいえず好ましく、子供のために30冊ばかり買い集めたが、それゆえ子供たちがみんなボーっとしてしまったのか。
子供たちが大きくなった時に妻が、僕に無断で図書館へ寄付してしまった。
上の子が「キャベツくん」を好きで何百回となく読み聞かせたのに、あっさり手放せるって気持ちが分からない。
子供のためと言いながら実は自分のためにも買い集めていたので、酷くがっかりした。
今でも買える本もあるが、多くは絶版になっていて、しかも絵本は子供が乱暴に扱ってもいいようにしっかり作られているので高価だったのになあ。
先日、伊勢佐木町のBOで「キャベツくん」を見つけたので買おうかと思ったが、あまりに高いので二の足を踏んだ。
若い頃好きだった作家で、その後嫌いになった作家も多く、処分するか一番下の段に無造作に押し込んで置くかだが、古典と言われるようなものは輝きを失なわないもので、気が付くと直ぐに目に付くところに並べてあり、流石だなと思う。
花伝書の一時の花とまことの花ってやつだ。
大体6,000冊くらいあると思うが、クリーニングをして並べ替える時に手に取るが、今後再び手に取ることがあるのだろうか、ましてや全てを再読することなど不可能で、だとすれば無駄に場所を取り、先の短い者には物を持たないシンプルな生活が相応しいから、家人が言うように無用の長物なのかもしれない。
例えばどうしても再読したい本を500冊だけ選び、死ぬまでそれを繰り返し読んでいるほうが自己研鑽になるし愉しいかもしれないのだが、内容だけでなく本には思い出が纏わりついていて、それを断ち切るのは生きた証を失うことに等しい。
古い日記を読んでいると、若い頃は良く本を読んでいて、何時何処で買ったもので簡潔な感想まで書いてあり、その本をこの数週間のうちに手に取っているのだから、何十年という時間を握り〆たような気がして、本を読んだことはもとより内容など全く覚えていないが、世界を抱きしめたような安らかな気分になる。
年寄りは昔はこうだったとか言うものだから嫌われるが、先が短いのだから将来の夢を語るなんてありえない、長い年月を生きてきたが印象的なことは限られるから話は繰り返しになり諄くなる。
でもそこに蓄積された豊かな時間を感じられない若い人は大切なものを取り逃している。
昼、妻が大量に肉があり、かつ丼にしようかと聞いてきたが、せめて野菜がたくさん採れるトンカツにしようと提案した。
下の息子もかつ丼のほうが美味いが、同じ理由でトンカツに賛同した。
味噌汁と沢庵、伽羅蕗、リーフサラダと高カロリーではあるが、まあバランスされた昼飯になった。
午後、「メジャー2nd」と「初恋が来た道」を同時に放映するのでどちらにするか迷った。
初恋が来た道は前に観た時に中国でもこんな素晴らしい映画があるのかと感動し、特に村にやって来る陶磁器の修理屋が、鎹で直すところが印象的だったので再びそれを観たいと思った。
半年前ぐらいに金継のオジサンから、この手法で直した江戸時代の小鉢を買って、もうこれが出来る職人は日本にいないかも知れないと聞いていた。
実は「メジャー2nd」を観ることに決めたが、インターバルで切り替えて、偶然この場面を観ることが出来た。
前回観過ごしたが、穴をあけるのに弓を使っていた。
修理屋に、これなら新しく買ったほうが安いのにと言われるくらい酷く割れた丼を直したのは、娘が好きな男のために作った料理を盛り付けていた丼だからで、母親は娘の心はその男が盗んでいってしまったと言った。
この場面思わず涙がこぼれたが、激しい恋は若い娘に急に全能感を与え、男はしっかりとそれを受け止めなければならない。
今も中国でこの技術を持った修理屋が村を回っているのだろうか、できれば一度中国に行き、職人が実際に修理をしているのを観てみたい。
大磯方面へ散歩に行き、相撲を観て、風呂に入り、晩飯を喰った。
鱈と白菜スープ、和風ロールキャベツ、油揚げに肉と野菜を詰め込みキャベツで巻いたものをがんもどき揚げ豆腐と一緒に煮込んだもの、スティクブロッコリー、胡瓜とシラスの酢の物、鰤塩焼き、伽羅蕗、沢庵。
酒が無いから20分で喰い終わり、9時まで荒井由実を聴き、「新日本風土記」鍋、「スローな武士にしてくれ」を観た。
全国の鍋を紹介していたが、自分で鴨を撃ち、茸を取って来て鍋にしている人がいたが、羨ましく思った。
スローな武士は前に観たことがあった。
映画を観るようになったのは最近だが、日記を読んでいたら、全く記憶にないが女友達と観ていたので、嫌いじゃなかったんだと認識を改めた。
映画って照明、カメラ、大道具、小道具、美術、衣装などなどの専門家が、それぞれ技を極めて凄いところまで行っているのが魅力で、日本人は好きなこととなるとカネのことなど言わないで打ち込む。
そういう人って映画屋や町工場の職人などにみられるが、いずれも衰退産業で、だんだん少なくなってきているのを心配する。
こういった心の構えというのが人の進歩の最先端で、高給で働いているとか一財産作ったなんて自慢は遅れてるんだぜ。
自分探しや幸せ探しをやっている不幸な人も多いらしいが、命を懸けてやりたいことがあるってのが幸せなんだけどなあ。
我がイナリヤト食文研のワインとビールはこちらからご覧になれます
こんな素晴らしい一日を本の片付けに費やさなきゃいけないなんてとは思うが、これが結構愉しい作業で、問題はいつ終わるのか分からない点だけだ。
それでも母のリハビリの方向性を決めるために、施設の担当者が25日に家の構造を見に来ることになったので、それまでには8畳間に広げてある本の山を何とかしなきゃいけない。
時間をかけて丁寧にやっていたけど、時間切れで纏めて邪魔にならないところへ移動では元の木阿弥だなあ。
今回の整理で、もうないと思っていた長新太の本が3冊出て来た。
「怪人タマネギ男」で有名なこの作家の絵本は、原色を使った画とお話がとぼけていて何ともいえず好ましく、子供のために30冊ばかり買い集めたが、それゆえ子供たちがみんなボーっとしてしまったのか。
子供たちが大きくなった時に妻が、僕に無断で図書館へ寄付してしまった。
上の子が「キャベツくん」を好きで何百回となく読み聞かせたのに、あっさり手放せるって気持ちが分からない。
子供のためと言いながら実は自分のためにも買い集めていたので、酷くがっかりした。
今でも買える本もあるが、多くは絶版になっていて、しかも絵本は子供が乱暴に扱ってもいいようにしっかり作られているので高価だったのになあ。
先日、伊勢佐木町のBOで「キャベツくん」を見つけたので買おうかと思ったが、あまりに高いので二の足を踏んだ。
若い頃好きだった作家で、その後嫌いになった作家も多く、処分するか一番下の段に無造作に押し込んで置くかだが、古典と言われるようなものは輝きを失なわないもので、気が付くと直ぐに目に付くところに並べてあり、流石だなと思う。
花伝書の一時の花とまことの花ってやつだ。
大体6,000冊くらいあると思うが、クリーニングをして並べ替える時に手に取るが、今後再び手に取ることがあるのだろうか、ましてや全てを再読することなど不可能で、だとすれば無駄に場所を取り、先の短い者には物を持たないシンプルな生活が相応しいから、家人が言うように無用の長物なのかもしれない。
例えばどうしても再読したい本を500冊だけ選び、死ぬまでそれを繰り返し読んでいるほうが自己研鑽になるし愉しいかもしれないのだが、内容だけでなく本には思い出が纏わりついていて、それを断ち切るのは生きた証を失うことに等しい。
古い日記を読んでいると、若い頃は良く本を読んでいて、何時何処で買ったもので簡潔な感想まで書いてあり、その本をこの数週間のうちに手に取っているのだから、何十年という時間を握り〆たような気がして、本を読んだことはもとより内容など全く覚えていないが、世界を抱きしめたような安らかな気分になる。
年寄りは昔はこうだったとか言うものだから嫌われるが、先が短いのだから将来の夢を語るなんてありえない、長い年月を生きてきたが印象的なことは限られるから話は繰り返しになり諄くなる。
でもそこに蓄積された豊かな時間を感じられない若い人は大切なものを取り逃している。
昼、妻が大量に肉があり、かつ丼にしようかと聞いてきたが、せめて野菜がたくさん採れるトンカツにしようと提案した。
下の息子もかつ丼のほうが美味いが、同じ理由でトンカツに賛同した。
味噌汁と沢庵、伽羅蕗、リーフサラダと高カロリーではあるが、まあバランスされた昼飯になった。
午後、「メジャー2nd」と「初恋が来た道」を同時に放映するのでどちらにするか迷った。
初恋が来た道は前に観た時に中国でもこんな素晴らしい映画があるのかと感動し、特に村にやって来る陶磁器の修理屋が、鎹で直すところが印象的だったので再びそれを観たいと思った。
半年前ぐらいに金継のオジサンから、この手法で直した江戸時代の小鉢を買って、もうこれが出来る職人は日本にいないかも知れないと聞いていた。
実は「メジャー2nd」を観ることに決めたが、インターバルで切り替えて、偶然この場面を観ることが出来た。
前回観過ごしたが、穴をあけるのに弓を使っていた。
修理屋に、これなら新しく買ったほうが安いのにと言われるくらい酷く割れた丼を直したのは、娘が好きな男のために作った料理を盛り付けていた丼だからで、母親は娘の心はその男が盗んでいってしまったと言った。
この場面思わず涙がこぼれたが、激しい恋は若い娘に急に全能感を与え、男はしっかりとそれを受け止めなければならない。
今も中国でこの技術を持った修理屋が村を回っているのだろうか、できれば一度中国に行き、職人が実際に修理をしているのを観てみたい。
大磯方面へ散歩に行き、相撲を観て、風呂に入り、晩飯を喰った。
鱈と白菜スープ、和風ロールキャベツ、油揚げに肉と野菜を詰め込みキャベツで巻いたものをがんもどき揚げ豆腐と一緒に煮込んだもの、スティクブロッコリー、胡瓜とシラスの酢の物、鰤塩焼き、伽羅蕗、沢庵。
酒が無いから20分で喰い終わり、9時まで荒井由実を聴き、「新日本風土記」鍋、「スローな武士にしてくれ」を観た。
全国の鍋を紹介していたが、自分で鴨を撃ち、茸を取って来て鍋にしている人がいたが、羨ましく思った。
スローな武士は前に観たことがあった。
映画を観るようになったのは最近だが、日記を読んでいたら、全く記憶にないが女友達と観ていたので、嫌いじゃなかったんだと認識を改めた。
映画って照明、カメラ、大道具、小道具、美術、衣装などなどの専門家が、それぞれ技を極めて凄いところまで行っているのが魅力で、日本人は好きなこととなるとカネのことなど言わないで打ち込む。
そういう人って映画屋や町工場の職人などにみられるが、いずれも衰退産業で、だんだん少なくなってきているのを心配する。
こういった心の構えというのが人の進歩の最先端で、高給で働いているとか一財産作ったなんて自慢は遅れてるんだぜ。
自分探しや幸せ探しをやっている不幸な人も多いらしいが、命を懸けてやりたいことがあるってのが幸せなんだけどなあ。
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