水戸歴史ロマンの旅‐3(偕楽園)


  そろそろ桜の季節も終わろうというころですが、まだ梅の話題です~。

  弘道館を出て向かったのは、大規模な梅林で有名な偕楽園。この偕楽園も徳川斉昭の命令によって建設が開始され、天保十三年(1842)に完成しました。

  パンフレットによると、偕楽園は現代の公園に相当するもので、藩主一族や藩士などの特権階級だけでなく、一般の庶民にも開放されていました。「偕楽園」の名は、「(民も)偕(とも)に楽しむ」という語に由来するそうです。

  千波湖の北岸一帯に梅を中心とした四季の花々が植えられ、園の南端に「好文亭」という木造三階建ての建物があります。

   (全景の写真を撮り忘れた。迂闊。)

  水戸斉昭は好文亭に文人、家臣、そして庶民を招き、彼らと一緒に詩を作ったりして楽しんだそうです。確かに、一階には床が板敷きの来客用の大きな座敷があり、隣接して藩主の御座の間がありました。

  建物は弘道館に比べると天井が低くて小ぶりな造りです。屋根も茅葺きで、外観は質素な山荘といった感じ。

   (好文亭の奥御殿。藩主夫人と侍女たちが滞在したそうです。)

  でも、奥御殿の部屋の一つ一つには花や木の名前が付けられ、それぞれの名前に応じた華やかな襖絵が描かれておりました。

   (「かえでの間」。)

  奥御殿の南端は三階建ての楼になっています。「楽寿楼」というそうです。最上階の三階部分は藩主と藩主夫人のプライベート・ルームらしく、面白いことに、食事を運ぶための人力エレベーターなどがありました。誰にも邪魔されない静かな部屋で、美しい風景を眺めながら食事を楽しんだりしたのでしょう。

   (三階からの眺め。梅林と千波湖がよく見える。)

   (三階からの眺め。現代でも最高の眺望ですね。)

  奥御殿の襖絵のある部屋には入れないのですが、楽寿楼は最上階の三階まで登ることができます。古い建物なのによく入れるな、と不思議に思っていたら、この好文亭は昭和33年(1958)に復元して重建された新しい建物なんだそうです。残念なことに、オリジナルの建物は戦時中の空襲で全焼してしまったそうで、しかも空襲に遭った日時は昭和20年(1945)8月2日、終戦目前のことでした。

  現在の偕楽園の周辺は住宅地(←超高級住宅街)と公園で、戦時中もおそらく偕楽園と千波湖以外には何もなかった郊外地域だったろうと思います。市の中心部だった弘道館周辺が空襲対象になったのはまだ分かるのですが、なんで郊外にある古い木造建築の好文亭が爆撃の標的になったのか、その理由がよく分かりません。歴史的遺産の価値が分からない、バカで底意地の悪いパイロットがやらかしたのでしょうか。ああもったいない。

  弘道館の梅の花はちょうど盛りでしたが、偕楽園の梅の花はまだ八分咲きくらいという感じでした。もう数日経ったら盛りになってなおさら美しかったことでしょう。好文亭の公開は午後5時までで、その後は人影がなくなりました。おお、これはシャッターチャンス!

  

  

  夕食にはあんこう鍋を頂きました。あんこうを食べるのは初めてでした。あんこう鍋はもともと「どろ汁」と呼ばれる漁師料理だったそうです。昔はあんこうは雑魚扱いされていて、たまたま網にかかったあんこうをもったいないから鍋にして食べたのが始まりだとか。私の郷里の秋田ではあんこうを見たことがないので、あんこうは日本海には生息していない魚だと思います。でも魚のアラを使った汁物は秋田にもあって、「アラ汁」とか「ざっぱ汁」とか呼んでいます。魚はタラ、サケ、タイなどです。

  あんこうの身の食感と味は弾力のあるタラみたいで、グロテスクな外貌に似合わず意外にあっさりしていました。あん肝は3切れ5,000円(!)と3切れ2,000円のものがあり、さすがに5,000円のには手が出なかったので、2,000円のを食べました。魚味のクリームチーズみたいで美味でした。

  東京に戻ってから、居酒屋のメニューに3切れ600円のあん肝がありました。水戸で食べたあん肝の美味が忘れられずに注文しようとしたら、同行者に「600円のあん肝なんて、得体の知れないモノに決まってるからやめなさい」と制止されました(笑)。

  今回行った弘道館と偕楽園の好文亭は、東日本大震災の地震で建物が破損し、修復・復旧工事が行われたそうです。好文亭は震災の翌年の2012年2月に早くも全面復旧しましたが、弘道館のほうは震災から3年後の2014年、つまり去年の3月にようやく全面復旧・再公開されました。

  タクシーの運転手さんから聞いたところによると、弘道館は国の重要文化財であるため、復旧工事をするのにまず文化庁の許可を得なくてはならず、それで復旧が遅れたとのこと。2011年3月11日の本震で、揺れが最も激しかったときは、信号機のポールが釣りざおのように大きくしなって左右に揺れていたそうです(水戸市の最大震度は6弱もあった)。

  水戸駅前から伸びている大通りは繁華街ですが、それにしては小さな駐車場がやたらと多くあるのが目についたので、運転手さんに聞いてみました。そうしたら、それらの駐車場にはもともと個人経営の商店があったのが震災で半壊し、店舗を取り壊さざるを得なくなった。しかし、店舗を新たに建設しなおしたところで、店の後継者がいない。それで、半壊した店舗を取り壊してそのまま店をたたみ、更地にした店の跡地に駐車場を作ったのだということです。

  子どもたちはみな独立してしまっている。高齢なのであろう経営者が、借金をして新しい店舗を建て、また店をやり直すにしても先が見えない。だから店そのものをもうやめて、更地にして、そのままだと税金が高くなるから駐車場にして、それでいくばくかの収入を得るくらいしか現実的な選択肢がなかった。

  よく「被災3県(岩手、宮城、福島)」というけれど、被災3県以外の県で震災の被害に遭っている地域はあるんですよね。青森県の太平洋側もそうだし、この茨城県もそう。茨城のほうがより深刻で、地震と原発事故の両方の被害を蒙っているのに、さほど注視されてこなかったと思います。

  梅の花や古建築を楽しんだけど、震災のことも考えさせられた水戸小旅行でした。

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