水戸歴史ロマンの旅-2(弘道館)


  孔子廟の脇にある遊歩道をしばらく歩きます。道の脇に広がっている梅園の梅の花は折しも盛りを迎えていました。ほのかな良い香りが漂っています。ここの梅園だけでも、東京都内にいくつかある、梅の名所と呼ばれる公園をしのぐすばらしさだと思いました。

  空堀の上に巨木の並木があったことを前に書きましたが、弘道館の周辺には巨大な樹木が他にも多くありました。このへんは戦時中に空襲に遭ったのだそうですが、巨木はいずれも樹齢がかなり古そうでした。焼け残った木々なのでしょうか?これらの木々も、都内だったらいずれも区の天然記念樹に指定されそうな、見事な木ばかりでした。

   (大きいあまりに洞〔うろ〕までできている。幹の太さは大人の一抱えではまったく足りないほど。)

   (こういう木があちこちにある。)

  現在残存している弘道館の敷地は、元来の敷地の三分の一ほどのようです。弘道館のメインである正門、正庁、至善堂(すべて国の重要文化財)の敷地に限るともっと小さくなり、もともとの敷地の五分の一から六分の一ほどでしょう。

  正門は藩主の御成り以外には開かれない門だそうで、現在ももちろん閉ざされたままです。現在の水戸徳川家の当主の方が御成りになれば開かれるのかもしれません。

  手前は正庁、左奥が至善堂です。

  

  見学者は靴を脱いで上がることができます。こういう由緒ある古い建物だと、部屋は原則立ち入り禁止で、廊下から部屋を眺めることしかできない場合も多いですが、弘道館は基本的に部屋の中にも入ることができます。正庁の玄関を入って真っ先に目に飛び込んできたのがこれ。

  

  この部屋は会議室兼控室だったそうです。どーですか、この覇気に満ち満ちた筆になる「尊攘」の二文字。「尊攘」はもちろん「尊皇攘夷」のことです。うわあ、いかにも幕末の水戸藩っぽい!

  徳川斉昭の諡号に用いられた「烈」という字は、そのまま水戸藩全体の印象でもあります。急進的で、時に過激ですらある。安政の大獄で多くの処罰者が出たこと(徳川斉昭がその筆頭。永久軟禁処分にされた)、桜田門外の変で井伊直弼を暗殺したこと、天狗党の乱などは、藩士たちがみな高い知識と教養とを持ち、自分たちの理想とするところがはっきりしていたがために、ひたすら一直線に突っ走ってしまった結果だったのかもしれない、と感じました。

  至善堂には徳川慶喜が大政奉還後に蟄居謹慎していたという部屋もありました。その部屋も立ち入り可でした。徳川慶喜はこのへんに座っていたのかな、と想像しつつ、畏れ多くも上座のど真ん中に座ってみたりしました。

  面白いことに、学生たち用の浴室やお手洗いなどもありました。浴室は板敷きで、床が左右の壁際から部屋の真ん中にかけて緩く下に傾斜しており、真ん中には一本の溝がありました。その溝にお湯を落として外に排水していたようです。

  お手洗いは「小」用と「大」用の二つに分かれていました。続き部屋ですが別々にあり、各部屋とも二畳くらいもある広いものでした。便器はともに木製で、「小」用は箱型で窓際の壁にしつらえてあり、「大」用は角形の金隠しがついていて床にありました(当たり前だ)。こういう生活感のあるもののほうが面白いです。

  建物の造りは重厚で質朴、また天井が高く、各部屋は大きく、廊下の幅も広かったです。全体的に広々としていて大きい造りという印象でした。大勢の人々、しかも男性ばかりが出入りしていたせいでしょうか。

   (余計な飾りのない、すっきりした造り。すがすがしい。)

   (至善堂側面。いや~、きれい。すてき。うっとり。)

  上の写真にある至善堂の側面には、徳川斉昭の筆になる扁額「游於藝」が掲げられています。

   (右から左に読みます。)

  「游」はあそぶ、「藝」は学問のことだそうです。教えてもらったところによると、「游於藝」、「藝(げい)に游(あそ)ぶ」とは、一つの目標にだけとらわれて小さく狭く近視眼的に勉強するのではなく、自由自在に、大きく広く、試行錯誤をくり返しながら、遠くを見据えて勉強していくことによって、自分自身のものをしっかりと培い作り上げなさい、という意味で、すごく良い考え方なんだそうです。たった三文字でこれだけのことを表現してのけた徳川斉昭、名君ですね。

  あと、黄門様の愛称で有名な、第二代藩主徳川(水戸)光圀(1628-1701)の碑文「梅里先生碑」の拓本が室内に飾られていました。水戸光圀が自分のことを紹介した自作文で、筆も光圀自身のものだそうです。文章も手蹟も非常に見事だそう。

  黄門様というと東野英治郎か西村晃のイメージなのですが、実際の水戸光圀も子孫の斉昭に負けない知識人で、日本の歴史書『大日本史』を編纂したことで有名です。清から逃れて日本に亡命した明の儒学者、朱舜水を自藩に招聘したことも知られています。

  また気性の烈しさも子孫の斉昭に負けず、「犬公方」こと徳川綱吉(1646-1709)の政治に対する不満を、綱吉の面前で堂々と言ってのけることもやったようです。

  水戸藩の藩主たちは、徳川家の殿様の中ではいちばんの個性派揃いかもしれません。

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