フェデラー伝説3-5


  ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第3章(Chapter 3)その5。

  誤訳だらけでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。

  
  ・97年夏、義務教育を終えた16歳のフェデラーは、進学はせずにプロのテニス選手になることを決意する。この時点で、英語とフランス語の勉強に取り組む以外、フェデラーは完全にテニス一本に集中するようになる。


  しかし、フェデラー自身、スイス・ナショナル・テニス・センター、スイス・テニス連盟すべてが乗り気になっている中で、意外な反対者が現れる。フェデラーの両親、ロベルトとリネットである。彼らの危惧は金銭的な問題にあった。


  ・フェデラーの両親は、息子が選んだ道は不確実でリスクが高いと考えた。父のロベルトが「息子のそれまでの過程には大きな敬意を表しますし、みなさんもロジャーがどんなに才能に恵まれているか、ということを私たちに話してくれましたが」と言えば、
  母のリネットも「それでも、私たちは行く末というものを見極めたかったのです。私たちはロジャーに、『我が家には、あなたが選手生活の大半を、ずっと世界ランキング400位あたりをぶらついて過ごせるような援助をする経済的余裕はない』とはっきり言い渡しました」と述べた。

  ・結局、スイス・テニス連盟が助成金を出してくれることになり、フェデラーの両親の息子に対する経済的な援助はなんとか持ちこたえることができた。しかし、母リネットは自分の仕事を5割から8割も増やして、一家の家計を支えた。もっとも、フェデラーの選手生活を維持するための金銭的な問題は結局、長期間にわたる重大事にはならなかったのだが。

  ・ビール(ベルンに近い都市)に新しく建設されたスイス・ナショナル・テニス・センターで訓練を受けることになり、フェデラーはエキュブランでの下宿先であったクリスティーネ家を出て、親友のイヴ・アレグロとアパートをシェアして住むことになった。
  ・フェデラーは両親を通じてアパートのシェアをアレグロに申し入れた。アレグロ「これは僕にとっても経済的に魅力的な話でした。それで、ロジャーの両親と僕の両親とが一緒に部屋探しに出かけました。」

  ・16歳のフェデラーと19歳のアレグロは、2つの寝室、共同のキッチンと浴室、サッカー・グラウンドに面した小さなテラス付きのアパートに引っ越した。「僕たちはよく、テラスからサッカーの試合を眺めて実況中継をしていたものです。」

  ・アレグロは言う。「本当に楽しかった。僕のほうが手慣れていましたから、僕がもっぱら料理をしました。ロジャーが主導して料理をすることはあまりありませんでしたが、僕が頼むと、彼はいつも手伝いました。彼の部屋はいつも散らかっていて、彼が掃除をして片づけても、2日後には元のカオス状態に戻っていました。」


  ここで、料理ができない、片づけられない、とフェデラーは家事能力ゼロだったことがバクロ(笑)される。徹底的に自分の好きなことしかやらない、フェデラーみたいな男子は大体こんなもんであろう。

  イヴ・アレグロについては、ATP公式サイトのプロフィールを見ると〝Inactive"と表記されている。シングルスはすでに2008年に、ダブルスは2012年に現役を引退したようである。自己最高世界ランキング(シングルス)は32位(2004年)で、かなりいいとこまで行ったといえる。

  しかし、10代のアレグロとフェデラーが二人でテラスに並んで、目の前のサッカー・グラウンドで行なわれている試合を眺めている光景を想像すると、ほのぼのした思いになるけれど、なぜかもの寂しい気持ちにもなります。人間、この年齢のころが人生の中でいちばん楽しい時期でしょうね。成功者と、そうではない者との区別がついていないこの時期が。


  ・駆け出しのプロテニス選手であるアレグロとフェデラーは、完全にテニス一筋であった。彼らの娯楽といえば、テレビを観るかゲームをやるかしかなかった。「ロジャーはパーティーの類にまったく興味がありませんでした(注:欧米のガキはパーティーでどんちゃん騒ぎをし、飲酒喫煙〔&いけないお薬〕で粋がるのがお約束の通過儀礼である)。」
  ・「僕はかつて彼がアルコールを口にしたと読んだことがありますが、でもそんなことはほとんどありませんでした。」 アレグロによれば、フェデラーはゲームでよく夜更かしをする以外は、外出もしなければ夜遊びもしなかったという。

  ・やがて、フェデラーの子ども時代の大親友、マルコ・キウディネッリ(Marco Chiudinelli、2000年プロ転向)も、訓練を受けるためにビールに引っ越してきた。キウディネッリはもちろん、フェデラーと再び親しく付き合うことになった。


  キウディネッリも、アレグロやフェデラーと同じ生活習慣と嗜好を持つ人物だった。


  ・キウディネッリは言う。「僕たちはゲームの世界の住人でした。僕たちはパーティーの類に魅力を感じたことはありませんでしたし、タバコだの酒だのにも興味がありませんでした。僕たちはコート上か、さもなければプレイステーションの中にいるほうが好きでした。」


  私生活での友人関係は良好だったが、コート上でのフェデラーの性格と言動は以前と変わらなかった。陽気で気まぐれ、カッとしやすく、すぐに癇癪を爆発させた。


  ・スイス・ナショナル・テニス・センターの新人育成プログラムの管理責任者、アンネマリー・リュエック「更衣室や選手用ラウンジから、よくヨーデルのようなカン高い声や、感情を解放するかのような叫び声が聞こえてきました。ロジャーだ、と分かりました。彼は感情を手放す手段として、こうした叫び声を上げずにいられなかったのです。彼は非常にやかましかったですが、でも不愉快ではありませんでしたよ。」(←はい、フェデラーはやかましかったんですね。)

  ・しかし、フェデラーはコート上で物事がうまくいかないと不愉快になった。フェデラーの暴言は悪評高く、またしょっちゅうラケットを放り投げた。

  ・フェデラーが個人的に最悪だったと思う出来事。「テニス・センターに新しいカーテンが張られた。センターは、そのカーテンを破った者には1週間のトイレ掃除を命ずる、と言った。僕はそのカーテンを見て、あんなにぶ厚いんだから、破れるヤツなんかいるものか、と思った。」
  ・「10分後、僕はラケットを回しながら、カーテンに向かってヘリコプターみたいに投げつけた。ナイフがバターを突き抜けるみたいに、ラケットはカーテンを切り裂いた。」 その場にいた全員がプレーを止め、フェデラーを見つめた。「ええっ!?、と僕は思った。そんなばかな、悪夢だ、と。僕は荷物を持ってコートから出て行った。みんな、とりあえず僕に消えてほしかっただろうから。」

  ・カーテンを破った罰として、早起きを何よりも憎悪する少年、ロジャー・フェデラーは、丸々1週間、とんでもない早朝から起き出して、施設管理係の職員を手伝ってトイレ掃除をし、コートの整備をしなければならない破目に陥った。

  ・ちょうどこのころ、父ロベルトが勤め先のチバ製薬オーストラリア支社に転勤したのにともない、フェデラー一家はオーストラリア移住を検討していた。一家がオーストラリアの数都市を旅行してみて、オーストラリアが大いに気に入ったから、というだけの理由で(←この一家は本当に風変わりですな)。
  ・しかし結局、この計画は沙汰やみになった。一家がミュンヘンシュタインでの人間関係を捨てがたかったこと、そして、オーストラリアでも、一家の末子ロジャーがテニスのキャリアを伸ばすのに、スイスでと同じ機会を持てるとは限らなかったからである。


  もし、97年の時点で、フェデラー一家がロジャーもろともオーストラリアに移住していたら、今のロジャー・フェデラーはなかったでしょう。次章で、フェデラーはついにジュニアの世界的なトップ選手に上りつめます。しかし、ジュニアのトップは、しょせんはプロの最下層に過ぎません。フェデラーは、プロテニスの厳しさと不合理さを味わっていくことになります。


 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )