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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

よくてよくて山桜

2012年11月24日 12時10分51秒 | えいこう語る
先週、車のタイヤを冬用に取り替えた。
タイヤ交換は、地元のガソリンスタンドで脱却機械を無料で借してくれる。
自分でできれば無料だが、スタンドに頼めば4本で3,200円だそうだ。
今は自分でできるが、近い将来には頼まざるを得なくなるのだろう。
3,200円とは、日本酒の一升瓶2本の値段だと思いながら、妻の車と2台分を交換した。
麓では時折小雪が舞うが、地面に落ちると消えてしまう儚さだ。
政党乱立し、むやみやたらに手を組み始めた、今の政治に似ているような気がする。
※今朝庭の桶に、薄氷が張っていた。


先日、DVD再生機なるものを購入した。数万円するとばかり思っていたが、なんと2,670円だ。テレビに接続し、レンタルDVDで映画を楽しんでいる。
製品は中国製だが、この値段でこれほどの楽しみをさせてもらっていると、領土問題は別とし、我が家では親中感情が生まれている。
私の年齢に達すると、バイオレンスものは疲れる。今我が家で上映中の映画はは、もっぱら直木賞作家の藤沢周平作品だ。
武家社会の理不尽さに立ち向かう武士の矜持、それを支える女性。見終わって、妻と拍手をするこの頃である。
昨夜は「山桜」という作品だ。
年貢の取立てで民を苦しめ、私服を肥やす上司を切る。独身を通すその侍には、他に嫁いだが生涯思い続ける女がいた。その女が里帰りし、山桜の美しさを眺めていた時、通りかかったその侍が枝を折り女に渡した。「幸せに暮らしているのか」と尋ねる。女は家同士の縁談で嫁に行き、2度離婚をして実家に戻ってきたのだ。その侍が、女を慕っていたというのを知らされ、女心はときめく。いくら正義でも上司を切った罪は死罪だろう。女は一人暮らしの侍の母に、山桜の枝を持ち訪ねる。母は息子が愛していた女性だと気付き家に招き入れるのだ。
床の間には山桜が飾られ、母とその女がむつまじく料理をする場面で映画は終る。尋ねてきた時の女と母の着物が、料理の場面では変わっていた。おそらくこの家で女は、その母と暮らすのだろう。
藤沢作品の最終章は、読者の想像に委ねる。それが読者を引き付ける氏の筆力だ。
ふと私は、亡くなった母の口癖を思い出した。
「よくてよくて山桜」という言葉だ。
「カンシャ・カンゲキ・アメアラレ」というのは、食料欠乏時代に生きた大正生まれの母が、他からいただき物があると、そういったのは子供心に理解ができた。
しかし「よくてよくて山桜」は、山桜でも素晴らしいものがあるという、その程度の意味と思っていたが、映画を観終えた途端、はっと、気付いたのだ。
私の母は10代後半に母親を亡くした。そのためか、随分性格のきつい人だった。
見合いで父と結婚したが、その当時は車のない時代で、村から外へは、家族が病気にでもならなかったら出かけられない、そんな生活環境だった。
母は若い頃、函館の姉のところから裁縫教室に通い、宇都宮の姉のところにもいたことがある。結婚してからは、めったに外出はしなかった。
私は結婚したが、やがて故郷に帰り車を購入し、一週間に一度は函館市内に買い物に出かけた。
近所の人も親戚の人にも「随分出かけるね」という目で見られたと、妻が話していた。私の母も、そんな目で私たちを見ていたようだ。
私たちは田舎暮らしのそんな息苦しい環境から逃れるように、車という移動手段を使ったのだ。
親戚で、他の町から嫁いできた女性がこんなことをいっていた。
「村に戻る前の峠に差し掛かると、嘔吐を催す」と。
「よくてよくて山桜」。どこにも自由に出かけることができないが、身近な所に咲く山桜で、函館公園や五稜郭公園、宇都宮で見た桜を思い出していたのではないかとふと思った。
家とか世間とか、そのようなしがらみの中で、四季の移ろいにささやかな喜びを感じていた、そんな諦念の時代が、つい最近まで存在していたのだ。
「山桜」の最終章、私はこんな筋書きになってしまった。


11:22まちづくり懇談会

2012年11月23日 10時56分37秒 | えいこう語る
22日午後から、2時間に渡る函館市長と市町連(函館市内187町会長)との、まちづくり懇談会が開催された。
私も発言者の一人に選ばれたので、大間原発を取り上げさせてもらった。
開会に先立つ市長の挨拶は長かった。特に大間原発での一連の行動と、原発の危険性についての説明は、私の発言とダブルところがあり、私の発言を割愛しなければならないという、作業に追われた。
発言者が複数いる場合、発言が重なることは間々ある。急遽原稿を変更するのも、スリリングで楽しみでもある。
私が質問したのは、市長の本気度をうかがうための提案だ。
「市長は大間原発無期限凍結を主張するが、ここは北国だ。春が来れば雪も氷も解ける。凍結とはいずれは解除することもあるのか。私たち市民としては、大間原発解体を主張してほしい」
「原発については様々な意見がある。私は今は反対だ。これはエネルギー問題なので、後世の人がそれをよしと判断すれば、凍結もありうるだろう」
「市長の活躍が目立ち、私たち市民がこの問題にどう取り組めばいいのかわからない。函館市は昨年、市民自治条例を制定した。そこには情報公開や住民参加がうたわれている。さらに、まちづくりは市民・議会・行政が協力し合うこととも明記している。これらの三者が反対の意思を示しているなら、市役所内に大間原発対策室のような部署を設置してもらい、安心・安全なまちづくりの住民参加を促進してほしい。そうでなければこの条例は絵にかいた餅になる」
これには市長はノーコメントだった。
最後に「最近の原子炉は、科学技術の粋を集め人類の叡智を結集した安全なものとして、“ふげん”“もんじゅ”などと菩薩の名を使っている。私は大間原発は“おしゃか”にしたい。市長も“おしゃか”にするまで健闘してほしい」
さすがに、大先輩の会長さんたちは紳士だ。市長に失礼と思ったのか、拍手は控えたようだが、座が少しざわめいた感じがした。
終了後、新聞記者に呼び止められ取材に応じた。
※最近、店の看板を描きかえた。


今日の会議のことは3分の一位で、後は選挙のことだ。
「今回の選挙は、国民の多くは政党難民となっている。この選挙が日本の運命を左右しかねない。12:16の開票は恐ろしい気持ちもする。もし連合艦隊大元帥閣下が圧勝などしようものなら、大日本帝国、並びに天皇陛下バンザイ等とテレビで叫ぶようで、鳥肌が立つからだ。その後のニュースが【天皇陛下・辞任】だ」
と、いったら、若い記者は「それはすごいですね」と、苦笑いをしていた。
もしこの冗談、閣僚がいったなら即辞任だろう。
26日月曜、合併した旧4町村の全会長の連盟で、大間原発反対の要望書を持ち、4人の連合会長が市長室に向かう。一番若い新米の私も先輩方の後を追う。
「あなたの冗談は、笑えない冗談だから、いい加減にしたら」という、妻の言葉を背負いながら。


衆議院選挙

2012年11月19日 12時46分26秒 | えいこう語る
戦後67年、地方自治体や国政選挙、はたまた私的な選挙を含め、どれほどの選挙を行ってきたか。
もしかして、落選した議員に票を入れたのが多かったかもしれない。
その中で思い出に残るのは、1983年の北海道知事選だ。
当時、私は35歳だった。挑戦者の横路孝弘氏が語った北海道再生論に、私をはじめ多くの若者が共鳴した。

「1983年春、ちょっと変化のある風が片田舎にも吹いてきた。切れ味のあるナイフのような青春時代をビートルズで過ごし、少ししぶみのついて来た青年たちは、その風を身体全体で受け止める感性はまだ充分残っていた。新北海道時代という少し荒っぽさのある風の中から現れたのは、横路孝弘であった。少年時代、一日中、海、山、川で育てられた青年たちは、誰よりも故郷を愛し、故郷の中で自分たちの存在と可能性を追い求め懊悩していた彼らにとって、その新しい風は勇気とチャレンジ精神を与え、進む方向を明示してくれた。一村一品運動、真の民主主義と地域社会のしがらみからの、人間解放運動の始まりである。・・・」

これは1995年、12年間の北海道知事を終え、国政に戻る時の「さよならパーティー」で私がスピーチした内容の一部だ。
読み終えた時、横路夫妻が駆け寄ってきて、このスピーチのメモ書き持って帰ったのだ。
このスピーチは横路講演会ニュースに掲載され、横路氏のこんなコメントが記載されている。
私はこの言葉に感動し、21世紀に向けた北海道づくりの基盤ができつつあることを実感した。今般の国の政治状況は、2年前の細川連立政権以来、1年間に3人もの首相が代わるなど、混沌とした状況が続いており、明治以来の政治、行政、経済のあり方が大きく変わっていくときにあると思います。・・・と。
※店から沖往く船が見える。箱が二つ浮かんだ作業船のようだ。沖往く大型船には、希望を感じる。


3年前の民主党の政権交代、国民は新しい国のあり方を期待したが、思うようにはいかなかった。
今の政権を見放さず期待をかけるのか、昔の慣れ親しんだ体質に戻るか、はたまた、急激な改革に向かうかの選択を迫られているのが、今回の選挙のようだ。
外交問題が大きくクローズアップされる今日、今回の選挙に潜む国家的危険とは何か、それを見極める選挙でもある。
大言壮語に惑わされず、自分の耳目でしっかり選ぼうという、詩人の故茨木のり子さんの声が聞こえる。

もはや できあいの思想にも できあいの宗教にも できあいの学問にも いかなる権威にもよりかかりたくはない
ながく生きてきて 心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目 自分の二本足のみで立っていて
なに不都合なことやある
よりかかるとすれば それは 椅子に背もたれだけ


恐怖の半島・下北

2012年11月18日 11時37分31秒 | えいこう語る
我が国にはたくさんの半島があるが、半島といえば真っ先に思い出すのが、朝鮮半島だ。特に北朝鮮はいつ国が崩壊するかしれない。その時に核ミサイルが日本に向け飛んでこないかと、動向が気になるからだ。
私の地域は、大きな枠組みでいえば渡島半島だが、正式には亀田半島という。
函館市に合併する前は、亀田郡椴法華村、明治時代に隣の旧南茅部町から独立した時は、渡島国椴法花村というから、私も半島人である。
私は自分の力が及ばぬ時は、自らを「半頭人」と称している。
旧国土省主催の、半島会議なるものに出席したことがある。
半島とは地の果てで、そこにくるとある決意を迫られる場所だという。最果ての地にとどまるか、そこから外洋に飛び出し新たな未来を築くか、その選択を迫られるという。
遥か縄文の昔、渡島半島と海峡を挟んで対岸の下北半島、交流が盛んであったのは想像に難くない。
下北は何度か旅行したことがある。「下+北=下北」「上+南=上南」そんなイメージを浮かべると、下北という名は淋しさが漂ってくるように思える。
昨日、函館市内で小さな講演会があった。そこで聞いたのは、対岸の下北半島東通村の産業廃棄物三菱マテリアル工場では、宮城県と岩手県の瓦礫処分を行うため、10月から搬入が始まった。いずれは福島の瓦礫も搬入されるのだろう。
さらに隣のむつ市では、リサイクル燃料貯蔵工場が建設中だ。その会社、東京電力が80%,日本原子力発電が20%株主の会社だ。
※北海道で最も下北に近いのは戸井町だ。その漁民の貴重な収入源は、流れてくる拾い昆布漁だ。浜は汚してはならない。


戊辰戦争の時、新政府軍に対抗した会津藩は、禄高を下げられ下北半島に移封され斗南藩となり、不毛、極寒の地での生活は、筆舌に尽くしがたいものがあると、歴史は語っている。
その歴史の経過と今の下北半島の現状は、つながり深いものがあるように思う。
本州最北端の地が、国家権力により無言を強いられているようだ。
生きる権利を奪われようとしている、下北半島の隣人に声をかけてやれるのは、函館市民ではないだろうか。
反対の声を上げられぬ故郷を愛する下北の隣人のために、私たち函館市民はどのような応援をしていけるか。
声高の大間原発反対のなかに、隣人を愛することも忘れてはならないと感じた、小さいけど情熱に溢れた講演会であった。


小説・最後の太陽の季節

2012年11月17日 11時21分14秒 | えいこう語る
野田首相、満を持して伝家の宝刀を抜き、戦いの火蓋は切られた。
衆議院解散、その度に世間ではいろいろな解散名が囁かれるが、野田首相にとっては「バカヤロー解散」なのだろう。
法案審議が解散と引き換えというのであれば「バカヤロー」の一つも出かかったに違いない。しかし、今回は、政治家も国民にとっても「五里霧中解散」のようだ。
大将が宣戦布告した途端、他の戦陣に鞍替えする輩もいる。
「立ちあがれ日本」などと叫んだ党は「太陽の党」と合流したと思いきや、その太陽「日本維新の会」と、小異を捨て大同団結をするようだ。
そこに「みんなの党」と「減税日本」が合流し、大連合艦隊を組織する気配だ。
連合艦隊総司令官は、老体に鞭打ち自らの生命をも省みず討ち死に覚悟の、石原大元帥閣下だ。天下を取った暁には、橋下殿下の登場となるのか。
「自己陶酔小説・太陽の季節」も、いよいよ最終章に入ったようだ。
毎夜ホテルの一室で、日本再生のシナリオを日一日と書き変えながら執筆を急ぐ、笑顔の直木賞作家がいる。
「天気晴朗なれど波高し」「ニイタカヤマノボレ」「トラ・トラ・トラ」など、作家の頭に去来するのは、我が身を鼓舞し国民を高揚させる言葉の数々だろう。
五里霧中とは敵も味方も区別がつかない。どこで奇襲作戦を展開するのか、はたまた野合するのか、読者は固唾をのみ新作を待ちわびている。いや、大した期待もしていないかもしれない。しかし、この有頂天作家は誰が何と言おうが、命付き果てるまで書き続けるのだ。
※頭が混乱してきたので、マリリンのDVDを観た。やりきれない美しさと笑顔に魅了され、ついテレビの画面に向かいシャッターを切ってしまった。


12月16日。日本の霧が晴れた時、我が日本丸には誰が船長でその舵を切るのか、不安この上もない。
ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ、それでも脱原発にシフトをきらないのは、米国の従属からの開放、再軍備、核武装への、国家滅亡へのシナリオか。
戦後67年目の総決算、そろそろ「憲法改正」への潮目に舵を切ろうとしているのか。
小説「最後の太陽の季節」の副題は「復活・大日本帝国」というネーミングなのかもしれない。
昨夜の夢の登場人物は、全員がちょび髭を蓄え、軍刀を腰にぶら下げていたという、大戦前夜のようなまがまがしい悪夢だった。